第6章 霧の彼方[2]

   キャサリンは、うっとりと目の前の光景を眺めていた。憎らしい女が身もだえして泣き叫ぶ姿を、もうすぐ見られるのだ。キャサリンが望むままに、誇りを汚され、惨めに屈服するのだ。一流のオペラを観るよりも、余程愉快な見世物だ。

 手にしている拳銃は、常に手提げ袋に入れて、肌身離さず持ち歩いているものだ。鋼の感触も、ずしりとした重さも、既に手によく馴染んだもので、こうして構え続けていても、苦にはならない。
 銃を向ければ、大抵の者は大人しくこちらの言うことを聞くようになる。それでも拒むような愚か者には、鉛の銃弾をお見舞いして、永遠に黙らせてやればいい。
 まだ20歳を越えるかどうかという年齢の割に、キャサリンはそういう場面に幾度も遭遇していた。何度も立会い過ぎて、とうに『普通の』感覚は麻痺してしまった。実際に幾度かは、引き金を引いたこともある。今更怖気づいたり、震えたりなどしない。拳銃を与え、使い方を教えてくれたのは、常に付き従う忠実な付き添い役、パメラ・トマソンだった。

 灰色の髪を地味なひっつめにし、化粧も施さず、身に着けるのは黒いドレスだけ。華やかなキャサリンの、引き立て役にすらならない女。人目に止まることもない女。それが、トマソンだった。
 彼女がどのような経緯でテイラー家に仕えるようになったのか、キャサリンにも詳しい話はわからない。気づいた時には、既に側近く仕えるようになっていたし、トマソンのことを父親に尋ねても、言葉を濁して、決して教えようとはしなかった。やがて立ち聞きしたメイドたちの噂話によると、テイラー家が財をなすのに協力したマフィアの関係者だとか。お喋り好きな女たちの勝手な憶測だったが、キャサリンは妙に納得した。暗い目をしたこの女は、確かに裏世界を歩いてきたような、そんな雰囲気を身につけていた。
 残酷な場面を見ても、眉ひとつ動かさずに対応できる冷静さを、キャサリンは信頼し、頼りにしていたが、同時に心のどこかで怖れてもいた。目立たない容姿だが、トマソンには得体の知れないところがある。

 付き添い役は、キャサリンの側近くに影のように従っていた。
 姿が見えなくとも、呼べばすぐに現れることからも、キャサリンの行動は全て彼女に監視されているのだ。もっとも、トマソンが側仕えとなってから、テイラー家におけるキャサリンの存在感は日々、大きくなっていったから、あの臆病な父親がトマソンから娘の行状について報告を受けることはなかった。

 ニューヨーク社交界で『王家』と呼ばれるほど、確固たる地位を築いているヒューイット一族と比べると、テイラー家は遅れて台頭してきた成り上がり一族だ。急速に地位と権力を手にするには、飛びぬけた手腕が必要とされる。無論、ライバルを容赦なく蹴落とすための、悪人じみた狡猾さも。
 現在の当主であるキャサリンの父、ミスター・テイラーには、それが中途半端に欠けていた。野心だけは人並み以上にあるのだが、気弱で、人を陥れることに罪悪感を感じる臆病者。不平不満を並べ立て、家族に八つ当たりするくせに、自力でどうにかすることもできない、無能者。
 キャサリンの母、ミセス・テイラーは、黙々と夫に従い、不平不満を口にすることすらしない、従順な女だった。「はい、あなた」「いいえ、あなた」口に出す言葉といえば、この程度のものだ。自分の意志というものを欠片も持たないような母親は、まるで父の言うなりで、奴隷のように見えた。一人娘のキャサリンに対しても、母親らしい愛情を示したためしがない。母は父に怯えて生きてきた。今では成長した娘に怯えて生きている。

 キャサリンは幼い頃から、両親を軽蔑してきた。両親の姿を見て、幼いながらも芽生えた反発心が、男性並みの強い意志を培ったのかもしれない。
 裕福な家庭の子女に相応しく、上等な教師を幾人もあてがわれた彼女は、みるみるうちに知識を吸収していった。乾いた土に沁みこむ水のように、キャサリンは貪欲に知識を蓄え、自ら学びたい分野と教師を選ぶまでになった。
 清教徒が自由を求めて渡った新天地アメリカ。自由な国家を標榜する合衆国においても、発言権があるのは男性だけで、女性は男性の付属物に過ぎない。
 父親よりも自分の方が明らかに優れているのに、女は父親の保護下に置かれ、嫁いでからは夫の保護下に置かれる。学ぶにつれて、両親に対してだけではなく、社会構造に対する反発も、キャサリンの中で膨れ上がっていった。そうした流れの中で、自力でのし上がれるところまで昇りつめ、愚かな男たちをあざ笑ってやりたいと望むようになったのは、自然な成り行きであった。

 反発を野心に変えた少女は、綿密に計画を練り、着々と行動に移し始めた。彼女が最初に目指したのは、社交界での評判を確固たるものにすることだった。美しいだけではなく、知識も豊富で、頭の回転も速い才女だという評価を世間で確立すれば、彼女の発言はひとりでに重みを増す。実際に、無邪気を装って、その実計算を働かせて何気なく口にした一言で、事業が上手くいったりするようになると、男たちも彼女に一目置くようになった。
 女が生意気だと父親が愚痴れば、ひと睨みをして黙らせた。美しく勝気で、頭の良い彼女は、年若くともテイラー家の主として、君臨するようになっていった。
 トマソンが側仕えとなってからは、いっそうそれが加速していく。

 世間から見れば、テイラー家の主はあくまでもミスター・テイラーで、キャサリンは移り気で我侭な娘にしか見えないだろう。けれど実態は異なることを、テイラー家の人々はよく承知していた。
 無能な両親を意のままに操り、うわべは華やかで気楽な資産家令嬢として社交生活を送る日々。彼女の美しさに魅了され、一晩きりの情けを乞い、跪く男たちの何と多いことか。多くの取り巻きに囲まれ、女王のように振る舞う。指を一本動かすだけで、威張り散らしている男たちが右往左往する。
 自力で勝ち得た境遇に、キャサリンは満足していたはずだった。しかし、ライバルとして社交界に君臨するヒューイット家の青年に素気無く振られた後、彼が英国に渡って勢力を欧州に拡大し始めたと聞いて、黙ってはいられなくなった。
 彼女の野心――ニューヨーク社交界の男たちを全て跪かせ、頂点に君臨するには、ケヴィン・ヒューイットが力を蓄えるのを、見過ごすわけにはいかない。

 父親に連れられてやってきたという風に見せかけてはいたが、テイラー親子の英国訪問は、キャサリンが仕組んだものだった。ヒューイットが英国人の娘と結婚したと聞いた時には焦りを覚えたが、彼が爵位を手にする可能性がないと知って、ほっと胸を撫で下ろした。爵位付きの娘と結婚されては太刀打ちするのが難しくなるが、あの狡猾な青年が伴侶に選んだのは、大した身分も財産もない娘だと聞く。ヒューイットは打つ手を間違えた。彼らしくもなく愛情を取るなどとは、随分と愚かなことをしたものだ。
 嬉々としてキャサリンは、花婿候補を物色し始めた。英国の爵位を持てば、ニューヨーク社交界でも一線を画した存在になれる。本物の貴族など見たことのない連中ばかりなのだから。階級支配から逃れ、平等を謳うくせに、貴種に憧れるアメリカ人の本質を、キャサリンはよく知っていた。

 独身で爵位持ち。幾人かの候補者の中で、将来有望と思えるのは、2人しかいなかった。フォード伯爵ブラッドレイ・ヒューズと、ウィロビー伯爵ウィリアム・ナイトレイ。容姿も身分も、家柄も申し分ない。彼らに近づく為、キャサリンは父を動かして、バリー伯爵家のハウスパーティーに強引に潜り込んだ。実際に逢ってみると、この2人は確かに、ニューヨークではお目にかかれないような、貴種だった。
 フォード伯爵夫人でも、ウィロビー伯爵夫人でもいい。レディ・キャサリンという響きも、ニューヨークの女王たる自分にはぴったりだ。
 キャサリンが思い描いていた将来を台無しにしたのは、1人の未亡人だった。

 リンズウッド伯爵夫人ソフィア・ポートマン。
 ウィロビー伯爵は彼女の側にぴたりと張り付いて、好意をはっきりと示しているし、フォード伯爵は距離を置きながらも、常に彼女を見つめていた。真っ青な瞳に宿る情熱と欲望の炎を見れば、伯爵がリンズウッド伯爵夫人に対してどのような気持ちを抱いているのか、一目瞭然だ。

 常に簡単に男性の心を手に入れてきたキャサリンにとって、ソフィア・ポートマンは最大の難敵だった。彼女はキャサリンと正反対の種類の美しさを持ち、キャサリンが持っていない身分と地位を持っている。
 邪魔な存在。キャサリンがレディ・リンズウッドをそう認めるまでに、時間はかからなかった。

 1度、わかりやすく警告を与えてみたが、この未亡人は儚げな見かけに似合わず、芯が強い人物のようで、怯えて退場することはなかった。
 はるばる英国まで来たのに、目的を達成せずに帰国するなどという事態は、あってはならなかった。次にキャサリンが始めたのは、ハウスパーティーに参加している紳士淑女の様子をつぶさに観察する事だった。すると、誰が誰に想いを寄せているのかが、面白いようにわかる。
 中でもキンバリー卿とウィッカム男爵は、レディ・リンズウッドに強く執着していた。女性の身体を貪ることしか考えていない男を、キャサリンは軽蔑しきっていたが、そういう類の男たちは操りやすいということも、ニューヨークで経験して知っていた。
 2人の青年伯爵を篭絡する事ができず、レディ・リンズウッドを消すこともできず、苛立ちに震えるキャサリンにとって、ウィッカムが館の東屋で未亡人を手篭めにしようとしたのは、僥倖といって良かった。一部始終を観察していたトマソンから、つぶさに事情を聞いたおかげで、キャサリン自身がその場に立ち会ったかのように、何が起きたのかをいち早く細かく把握できた。
 男爵がロンドンへ戻ってからも、トマソンの知己を通じて様子を監視させた。偶然を装って再会し、優しく微笑むと、男爵は助けてくれと縋りついてきた。これでキャサリンの思うがまま、行動する駒が新たにできた。

 キャサリンの計画は、フォード伯爵がレディ・リンズウッドと共に一足先にロンドンへ戻ったことで、頓挫していた。もちろん、その程度のことで諦める彼女ではない。自身もロンドンへ戻ってから、伯爵の周囲にまとわりついて、積極的に誘惑したけれど、返ってきたのは、無残な拒絶だった。
 キャサリンにとっては、ケヴィン・ヒューイットに味わわされたものに続く、2度目の拒絶。屈辱に打ち震える赤毛の女性は、胸の中で激しい憎しみを燃え上がらせた。キャサリン・テイラーは、燃えるような赤毛が示す通り、炎のような気性の持ち主なのだ。キャサリンは計画を変更し、フォード伯爵とレディ・リンズウッドへの復讐を練り始めた。その手先として適任だったのが、アヘンの味を教えて以来、キャサリンの人形と化したウィッカム男爵だった。

「お嬢様の名前が明るみに出るようなことがあってはなりません」
 トマソンは、キャサリンの隠れ蓑にウィッカムを仕立て上げた。彼女のやり口はいつもそうだった。決して自身の存在を気取られるようなことがないよう、間に何人もの駒を置いて、計画を実行させる。それはいつも成功していたから、今回もキャサリンは別段に反対しなかった。
 男爵の行動を、フォード伯爵やボウ・ストリートが監視していることも、トマソンを通じてキャサリンは知っていた。男爵の事業が、フォード伯爵主導の封じ込めにあい、困窮していることも、キャサリンは見破っていた。
 天が味方しているとしか思えない、追い風が吹いていた。

 ウィッカムが抱いているフォード伯爵への憎しみを煽り、軍資金や小道具を与え、唆すだけで、復讐計画は開始された。1度目は失敗したが、2度目の今回は上手くいった。攫うのは簡単だった。彼女の娘の時にも使ったクロロフォルムで、未亡人は一晩意識を失ったまま、余計な抵抗はしなかった。
 英国人らしい気位の高さを持つ未亡人は、淑女らしからぬ気力を振り絞って、猛烈な抵抗を見せた。だがそれも、これで終わりだ。

「残念ね、レディ・リンズウッド。わたくし、母のような弱々しい女性よりも、あなたのような気の強い女性が好きなのだけれど」
 誰にともなく、キャサリンは呟いた。柱に背中をつけながらも、強い視線でウィッカムを睨みつけている女性には、こちらの声に耳を傾ける余裕はない。彼女は目の前の男に、注意を向けるので精一杯だ。何しろ男の手が、スカートに伸びているのだから。
「生意気な女性が、自分の無力を痛感して泣き叫ぶのを見る方が好きなのよ」
 恍惚とした表情を浮かべ、キャサリンは微笑んだ。この場にそぐわない艶然とした微笑みだった。銃を構えた先では、逃げ場を失った女性に、今にも男が襲いかかろうとしているのに、キャサリンはまるで舞踏会場にでもいるかのように、艶やかに笑った。

 目障りなレディ・リンズウッドがウィッカムに力ずくで陵辱され、ウィッカム男爵夫人となるというのは、我ながら随分と気の利いたアイディアだった。愛しい人がウィッカムのものになったと知った時、フォード伯爵はどんな顔をするだろうか。想像するだけで、笑いが止まらない。

 いよいよウィッカムの手がスカートにかかり、レディ・リンズウッドの顔に怯えが走るのが見えた。さあ、これからが山場よ。うっとりと男女を眺めるキャサリンの意識を妨げたのは、控えめな女の声だった。
「お嬢様」

「なぁに?これからいいところなのよ。邪魔しないでちょうだい」
 振り返らずに、苛々と跳ねつけたが、再度名前を呼ばれては無視を続けるわけにいかない。渋々とキャサリンは振り返った。
 戸口のところにトマソンが立っている。彼女は馬車に残り、見張りをすることになっていたが、その彼女がやってきたのだから、何か不測の事態が起きたに違いなかった。銃を下ろして、キャサリンは双眸を眇めた。
「お前が来るなんて、何があったというの」
「フォードが戻ってきました。ボウ・ストリートの捕り手を連れて。直にここにもやってくるでしょう」
 淡々と告げられ、キャサリンはいっそう目を細めたが、時間を無駄にするようなことも、つべこべいうこともしなかった。引き際が肝心だということを、彼女も心得ているのだ。ロンドンを出てから、こちらを執拗に追跡していた男の顔を思い浮かべて、キャサリンは憎憎しげに吐き捨てた。
「ソウルズといったかしら、あの男」
「はい」
 トマソンが頷くと、キャサリンは肩を竦め、「仕方ないわね」と呟いた。次に顔を上げた時には、彼女は既に気持ちを切り替えており、いつまでもぐずぐずしてはいなかった。後ろを振り向くなり、声高に男の名前を呼ぶ。

 びくりとした男が、膝上まで捲り上げたスカートから手を離すと、キャサリンは己の銃を手提げ袋に仕舞いながら、きびきびと告げた。
「ちょっとこちらにいらっしゃい。それからトマソン、銃をちょうだい」
 片手を差し出すと、心得たように付き添い役が別の拳銃を手渡した。ずしりと重いそれを、おどおどと近づいてきた男に押しつける。
「急用ができたから、わたくしはもう行かねばならないの。それを預けるから、あとは首尾よくおやりなさい」
 早口で命じると、続いて蒼白な顔をしている未亡人へと目を遣った。灰色がかった青い瞳を、琥珀色の瞳が見据え、鮮やかに笑った。
「残念だけれど、これでお別れだわ、レディ・リンズウッド。次にお会いする時はウィッカム卿夫人になっているわね。楽しみにしているわ」

 言い終えるなり、キャサリンはウィッカムには一瞥もくれず、戸口へと歩き出した。埃っぽい小屋を出、馬車に乗り込んでからも、彼女は暫く無言だった。トマソンの合図で馬車が走り出してから、丘ひとつ分を越えたところで、漸くキャサリンは口を開いた。その表情は、仮面のように冷たく、無機質だった。
「このまま休まずロンドンまで駆けさせて。馬が潰れたらすぐに買い換えればいいわ。絶対に止まってはダメよ」
「はい」
 相変わらず感情の見えない声で、トマソンが頷いた。キャサリンは頬杖をついて、窓の外を眺めた。濃く立ち込めていた霧は、次第に薄くなり、上空からは明るい光が差し込もうとしている。霧が残っているうちに、できるだけ遠ざかっておくのが得策だ。

 外に目を向けたまま、キャサリンはぽつりと呟いた。
「ロンドンに着いたら、大西洋航路の船をすぐに押さえてちょうだい」
「はい」
 フォード伯爵の怒りをまともに浴びたら、新参のテイラー家など、容易く潰されてしまう。一刻も早く英国を出なければならなかった。大西洋を渡ってしまえば、さすがにそこまでは伯爵も追ってこないだろうし、合衆国に入ってしまえば合衆国の法律がキャサリンを保護してくれる。

 一連の復讐劇への興味は、急速に失われていた。彼女の頭にあるのは、どれだけダメージを少なく抑え、出国できるかということだけ。人間性に問題はあっても、実業家としての彼女は優秀だった。失敗に終わった英国進出よりも、合衆国での既得権を守ることを最優先に、頭を働かせている。
 作業小屋に残してきた男の運命も、彼女はとうに見切りをつけていた。怒りに燃えるフォード伯爵たちが踏み込めば、正気を失った男の末路は、火を見るより明らかだ。キャサリンに見捨てられた時、男爵の運命は決していた。


 馬車の音が遠ざかっても、暫くの間、ウィッカムは手にした拳銃をぼんやりと見つめたままだった。放心したように、虚ろな目で、重たそうな鉄の塊を眺めている。

 ソフィアは男から目を離さないようにしながら、急いでスカートを足首まで下ろした。厄介な相手は1人減ったものの、油断はできない。幸い心ここにあらずといった様子だが、いつソフィアのことを思い出すかわからないし、何より、小屋を抜け出すには、戸口を塞ぐ位置に立っている。

 迷っている時間が惜しかった。

 細心の注意を払いながら、物音を立てないように、ソフィアは静かに立ち上がり、農具が様々に積み上げられている辺りへ向かって、そろそろと移動した。先ほど抵抗した時に靴が脱げてしまっているのが、かえって好都合だった。影に潜み、ウィッカムの注意を反対方向に上手く引きつけられたら、脱出の機会を掴めるかもしれない。
 ドキドキと忙しい心臓の鼓動が、こめかみの辺りにも響いてくる。呼吸するのも控え目に、ソフィアは慎重にじりじりと動いた。山のように積み上げられた農具の影にやっと辿り着いた時、一瞬緊張が緩み、コトリという小さな物音を立てた。

 肝を冷やしながら、息を潜め、ソフィアは影からウィッカムの様子を窺った。男は、ぱちぱちと瞬きを繰り返すと、女の姿が見えないことに、漸く気づいたらしかった。舌打ちが聞こえたが、黒光りする拳銃に視線を落として、自分が圧倒的に優位であることを思い出したらしい。品のない笑いが、緩んだ口元に浮かんだ。
「どこに隠れたって、こんな狭い小屋じゃ、逃げ場はないさ」
 自分に言い聞かせるように呟くと、男は顔を上げ、小屋を見回した。キャサリンがいた時とは別人のように、生き生きとした表情を浮かべているが、やはり目には正気の光はない。アヘンの影響だろう、恍惚とした様子だ。自らの頬から滴り落ちた血痕で、僅かに足を滑らせたが、流血も血痕も、気にしてはいないようだった。痛みがあるはずなのに、感覚が麻痺しているようだ。

 完全におかしくなっている。

 ソフィアはぞっとして、胸の前に握り締めた両手に力を込めた。
「あの女がいなくても、俺1人だって上手くやるさ。なぁレディ・リンズウッド。いや、直にウィッカム卿夫人になるのか。ウィッカム卿夫人だ、いい響きじゃないか」
 高笑いしながら、男は積み重なった農具に手をかけ、乱暴に床にぶちまけた。激しい音と共に、もうもうと埃が舞い上がる。ソフィアが潜んでいる場所とは反対側だが、派手な物音がソフィアを縮み上がらせた。ここで見つかれば、先ほどまでよりも、悲惨な目に遭うに違いない。

 埃を吸い込み、ゲホゲホと咳き込んで、男は身を屈めた。その先で床に転がったままの華奢な靴に気づき、ヒヒヒと笑った。
「なぁウィッカム卿夫人よ、あんたは裸足で逃げ出すつもりかい?」
 身体を起こして、小屋を見回すと、今度はソフィアが隠れている方へ、ゆっくりと歩き出した。拳銃を見せびらかすように持ちながら、男は確実にソフィアへ近づいてくる。今のように農具をぶちまけたら、今度こそ発見されてしまう。心臓がドラムのような音を立てて激しく動いているのが聞こえる。男の手が、農具の端にかかった。どうしよう。ソフィアはぎゅっと目を瞑った。

 騒々しい音と共に、ソフィアを守っていた壁が崩れた。静かになった室内に、愉悦に満ちた悪魔の声が残酷に響く。
「かくれんぼは終わりだ」

 その時、前触れもなく何かを打ちつけるような音が不意に響き、鋭い声が、小屋の空気を切り裂いた。

「そこまでだ、ウィッカム」

 ソフィアがハッとして目を開けたのと、ウィッカムが振り向きざまに発砲したのは同時だった。ウィッカムの発砲と重なって、もう一発、別の銃声が唸りを上げた。轟音が響き、鼓膜が痛いくらいにびりびりと震える。座り込みそうになるのをこらえて、目を瞠るソフィアの視界に映ったのは、開け放された扉と、左肩を押さえて唸るウィッカムの後姿。拳銃を持ったままの右手で肩を押さえているが、だらりと下がった左腕からは、ぼたぼたと血が滴り落ちている。

「畜生」
 ウィッカムがよろめき、低く悪態をついた。錆びたような血の臭いが、小屋に漂う。黒い影が戸口に現れ、一歩、室内に踏み込んだ。逆光で、すぐには顔が見えない。

「観念するがいい」

 冷たいナイフのように切りつける声は、ソフィアがよく知っている人物のものだった。真っ青な双眸が、死神が振り下ろす鎌のような鋭さで、負傷した男をねめつけている。ソフィアは震える両手で口元を覆った。こみ上げる熱いものを、歯を食いしばって嚥下する。

 ――ブラッドが来てくれた。

 瞬きを必死に繰り返して、流れ出そうとするものを押し戻す。まだ事態は解決していないから、泣き出すには早い。自分にそう言い聞かせながら、ソフィアはブラッドの勝利を、信じて疑わなかった。

2009/09/29up

時のかけら2009 藤 ともみ

inserted by FC2 system