こころの鍵を探して

幕間 過去の残照[3]

 冬の名残の冷たい風が、頬を撫でていく。冷たさにぶるりと身体を震わせながらも、ウィルは、足を止めようとはしなかった。厚手のコートを着て、衿を立てているから、風に晒されているのは顔だけではあるが、きっと頬は真っ赤に、茶色の髪は乱れているだろう。
 太陽が顔を見せれば多少寒さも和らぐのだが、生憎と灰色の薄い雲が空を覆い、ぼんやりとした明かりがバースの街を照らしているだけだ。世界各地に領土を持つ偉大なる大英帝国も、本拠地グレートブリテンの天候は、一年のうち大半がこのようなものだ。雨が降らないだけ、まだましというものだ。ぬかるんだ地面を注意深く避けて、ウィルは芝生の上を選んで歩いた。

 毎日の昼下がり、僅か30分ほどとはいえ、こじんまりとした庭を歩き回ることが、この屋敷に立ち込める重苦しい空気から、ウィルを解放してくれる貴重な時間となっていた。この空にも負けない、どんよりとした空気が、日に日に重く、屋敷全体を覆い尽くそうとしていることを、この屋敷に集うひとびとは、誰もが敏感に感じ取っていた。その一方で、誰もがそれを、感じていない振りをして過ごしているのだ。とりわけ、屋敷の2階で休んでいる娘に気づかれることのないように、慎重に振る舞って。
 何気ない風を装って、ちらりと屋敷の2階、南端の窓を見上げたが、カーテン越しに人影は窺えなかった。調子が良い時は、窓辺に設置されたベッドの上から、菫色の瞳がウィルの散歩を見守っているのだが、今頃は穏やかな眠りにその身を委ねているのかもしれない。彼女に訪れる眠りが、どうか心安らかなものでありますようにと、ウィルは願わずにいられないのだ。

 冬の終わりから春にかけての日々を、この年、ウィルはバースに部屋を借りて過ごしていた。ケント州の領地から、腹心の従僕を僅かに連れて、ロンドンの知人が夏場過ごしている部屋を借り上げていた。心地よくしつらえられた部屋ではあるが、ウィルがその部屋に帰るのは、睡眠を取るためだけ、といっていい。
 避暑地として夏場賑わうバースの町には、ウィルのように滞在している貴族の姿はこの時期ほとんどない。新年が明けて暫く経てば、ロンドンや地方の社交界では新しいシーズンが始まるから、ある程度の地位にある者であれば、そちらに顔を出すのが普通であった。バースでも地元の有力者たちが幾つかのパーティーを開き、その招待状もウィルのもとへ送られてきていたが、彼は一切を丁重に断り続けていた。

 ウィロビー伯爵家を若くして継いだウィルにも、イートン校を出て正式に爵位を継いだ頃から多くの招待状が送られてくるようになっていた。ウィロビー伯爵家は、ケント州ウォーリンガム近郊に古くからの領地と館を持っており、名家としてひとびとの尊敬を集めている家柄である。

 ウィルが生まれて間もなく、出産がもとで体調を崩していた母が亡くなり、その後、漸くウィルに物心がつくかどうかという頃に、父が病気で亡くなった。父は、周囲にどれだけ勧められても後妻を迎えたりはしなかったから、伯爵家の直系男子はウィルただ一人きりだった。小さな肩に、どれほどの重い責任が課されたのか、当人は知るよしもない。幼い後継者しか残されなかった伯爵家を支え、盛り立ててきたのが、叔父の男爵と、隣人であった。
 領主夫妻の相次いだ病で、伯爵家の財政は一時的とはいえ、切迫した状況となっていた。父の弟であるレイブン男爵は、古くからの友人であるバリー伯爵に助言を仰ぎながら建て直しを図り、父の隣人で良き友人であったサー・レジナルドは協力を惜しまず、ウィルを我が子のように遇した。このふたりのおかげで、ウィルは無事成人できたといっていい。レイブン男爵自身にも治めるべき領地があるため、ずっとウォーリンガムに滞在するというわけにはいかなかったが、その代わりに、常に少年に寄り添ってくれたのが、サー・レジナルドだった。

 レジナルド・デイヴィスは、元はケント州のジェントリー出身であり、爵位を持たない富裕層という身分だった。その彼が『サー』の称号を許されたのは、軍医として幾つかの戦いに従軍した折の功績が認められたことによる。一代限りの貴族という扱いではあるが、これは、地元のひとびとにとっては大きなニュースであり、誇りであった。それまでにも医師として多大な尊敬を集めていた彼の存在は、受勲により、ぐっと重みを増した。
 それを機に、彼はかねてよりの望みを実現させるため、軍を退役し、ケント州へと引っこんだ。これまでの経験をもとに、地域の医療を充実させること。これが彼の望みであり、それを資金面などで大いに手助けしたのが、隣人のウィロビー伯爵であった。

 彼らの友情は、片方が欠けたからといって消え去るようなものではなかった。サー・レジナルドは、時には厳しく、温かく、ウィルの成長を見守った。彼のふたりの子供、アビゲイルとローランドも、ウィルを家族として受け容れた。姉のアビゲイルはウィルより二つ年下で、ローランドは更に一つ下であったが、病弱だった母親の死後も、家庭の中に笑い声が溢れているような、陽気な子供たちだった。とりわけ、アビーの笑い声といったら、澄んだ鐘の音のようで、それを耳にした誰もが笑顔になった。
 彼らの明るさに、一人っ子のウィルは随分助けられたものだ。子供ながらに、いずれ自分が背負うことになる責任の大きさを感じ取っており、それを考えると足が竦む思いがしたものだが、そうした時、励ましてくれたのが、アビーだった。ウィルが言葉にしなくても、彼のこころを敏感に察して、いつだって欲しい言葉をくれたのが彼女だった。言葉が要らない時には、黙って抱きしめてくれた。今思い返しても、幼い頃からふたりの間には不思議な繋がりがあったのだと思う。ウィルがアビーを必要としている時、アビーがウィルを必要としている時、お互いにそれを感じ取り、自然と寄り添いあっていた。

 ジェントリー階級の子供といっても、アビーはきちんと家庭教師に教育を受け、淑女として育てられていた。貴族の称号はあっても財産のない者は大勢いる時代であるが、サー・レジナルドはきちんと財産を管理する能力を持った男で、特に子供の教育には、金銭を惜しまなかった。いずれウィルは、紳士教育を受けるため寄宿学校へやられることが決まっていたが、それまではアビーと机を並べて、同じ教師について学んだ。

「ねえウィル、オフィーリアはどんな気持ちがしたのかしら」
 アビーは読書が、特にシェークスピアを読むのが好きで、決まって、ウィルに感想を求めてきた。そんな時、ウィルの実際的な感想を聞いては肩を怒らせ、彼女は実に少女らしい、感傷的な感想をとうとうと述べるのだった。

 やがてウィルがイートン校へ進学してからも、ふたりの絆が弱まることはなかった。毎日の出来事をお互いに報告する手紙が頻繁に行き来し、休暇で帰郷した時には、真っ先に抱擁を交わした。

 アビーが美しい娘に成長しつつあることに、ウィルが最初に気づいたのは、イートン校へ入学してから最初のクリスマス休暇のことだった。我が家も同然のサー・レジナルドの屋敷を訪ね、アビーが午後を過ごしていると教えてもらった庭の温室へと向かったウィルが目にしたのは、色とりどりの花に囲まれて佇む、ほっそりとした少女の姿だった。
 誰の目から見ても、アビゲイル・サラ・デイヴィスは、美しい少女だった。艶やかな黒髪が豊かに波打ち、横顔は優美な曲線を描いて、乳白色の陶器のような肌は、ほんのりと薔薇色に染まっている。賢そうな額に、優しげな微笑みをいつも浮かべた唇は、年齢に似合わぬ大人びた雰囲気を漂わせているが、それもやむを得ないのかもしれない。女主人を失ったデイヴィス家では、アビーが家庭を切り盛りする役目を引き受けていたのだ。

 この日、アビーは物憂げに俯いて花々を眺めていたが、まるで花園に佇む女神のような美しさと静謐さを身に纏っていた。温室の入り口で思わずウィルが立ち止まってしまうほど、酷く印象的な光景だった。じっと花を眺める彼女の邪魔にならないよう、息を潜めて、このまま彼女を見つめていたい。そう願ったウィルだったが、アビーは闖入者の気配を感じ取り、そっとこちらを振り向いてしまった。
 大きな菫色の瞳が、晴れた空のように、みるみるうちに輝きを増していく。誰もが口を揃えて「美しい」というアビーの、宝物とでもいうべきは、この双眸であった。

「ウィル!帰ってきたのね!!」
 身軽く走り寄ってきて、アビーは涼やかな笑い声を振りまきながら、ウィルへと抱きついた。柔らかく温かな身体を抱きしめながら、ウィルはアビーの花のような香りを深々と吸い込み、こころがほっと緩むのを感じたのだ。この時のアビーの体温を、身体の感触を、匂いを、ウィルはのちのちまで鮮明に思い出すことができた。
「お帰りなさい、ウィル」
「ただいま、アビー」
 彼女こそが、自分の帰ってくる場所であると、ウィルはこの時悟ったのだ。
 ひとりきりの彼を、温かく受け容れてくれる場所。それがアビーだった。

 それからの彼は、アビーに他の男性が近寄らないよう、細心の注意を払った。イートン校に戻っている間は、日に日に美しくなるアビーに悪い虫がつかないかどうか心配で、ローランドの協力を取り付けた。爵位を持たないウィルには、何の力もない。アビーとの将来を手に入れるために、ウィルは己を磨かなければならなかった。サー・レジナルドに認められる男にならなければという一心で、彼は勉学に打ち込んだ。
 もちろんその一方で、アビー自身の気持ちを確かめることもした。ウィロビー伯爵家の東屋で、娘らしく頬を真っ赤に染めたアビーに、ウィルはそっと唇を重ねた。ふたりを結ぶ絆は、いっそう強くなったと思えた。

 イートン校を卒業し、爵位を無事に継いだと同時に、ウィルはサー・レジナルドの許しを得て、アビーと正式に婚約を交わした。実際の婚礼は、アビーの社交界デビューが無事済み、彼女が社交シーズンを経験してからにしたいというサー・レジナルドの強い意向によって、まだ先であった。家庭に入る前に、アビーに社交シーズンを楽しむ時間を与えたいというサー・レジナルドの親心に、ウィルも反対する理由はなかった。彼女と正式に婚約をし、未来の夫として振る舞う正当な権利を得たことで、ウィルの胸は誇らしさではち切れんばかりだった。

「これでやっと、僕もお役目から解放されるね」
 婚約式を終えて、ウィロビー伯爵家の居間で、身内の者だけでくつろいでいる時に、ローランド・デイヴィスがしみじみと呟いた。ウィルは視線で黙るようにと伝えたが、それには気づかないアビーが、無邪気に弟に問いかけた。瞳の色と同じ、菫色のドレスを身に着けた彼女は、とても美しかった。まるで妖精のような軽やかな身のこなしで、実に幸せそうにウィルとダンスを踊った後だけに、色白の頬も赤く色づいて、血色がいい。

「あら、ローリー。お役目って何のことかしら?」
「それはね、姉さん」
 ローリー自身もイートン校に在籍しており、この頃には活発な少年らしさは姿を潜め、青年へと近づく落ち着きと精悍さを感じさせていたが、エメラルドのような緑の瞳には、幼い頃そのままの茶目っ気がたっぷりと煌いていた。砂糖菓子のようなふわふわした巻き毛の金髪と、悪戯っぽい光をたたえた緑の瞳は、まるで御伽噺に出てくるよう妖精のような奔放さを漂わせていた。

「ローランド・デイヴィス」
 厳しく名前を呼ぶウィルの声よりも早く、ローリーは、悪戯っぽく笑って暴露した。
「姉さんに悪い虫が近づかないように、ウィルがいない間、見張っておく役目だよ」
「まぁ」
 アビーは目を丸くし、ローリーは小さく舌を出し、他の人々は好意的な笑い声を立てた。ウィルひとりが決まり悪さを抱えていたが、それをフォローするように、アビーが「でもねローリー」と、優しく口を開いた。

「ウィルのように素敵な紳士には、きっと沢山のレディが憧れているのでしょうね。わたくしは田舎娘に過ぎないけれど、都会の素敵なレディだって、ウィルには惹かれると思うの。わたくしはそちらの方が心配だわ」
「そんな心配は必要ないよ、アビー」
 婚約者のほっそりとした手を取り、ウィルはそっと甲に口づけた。
「私は君しか見えていないからね」
「やれやれ」
 ローリーが大袈裟に肩を竦めると、再び笑い声が居間に響いた。彼は実に幸せそうに、姉と未来の義兄を見つめて、零したのだった。
「付き合ってられないね」

 この場の誰もが、初々しいカップルの未来が輝いていると信じて疑わなかった。

 強いていうならば、デイヴィス家の家格がウィロビー伯爵家と釣り合わない、低い爵位ではあるが、アビーの父サー・レジナルドが長年のたゆまぬ努力の結果勝ち得た尊敬や評価が、それを補って余りあった。レイブン男爵もこの縁組を歓迎したし、双方の一族にも好意的に受け止められた。ケント州ではもっとも注目を浴びるカップルとして、この時期地域社交界では一番の話題だった。
 人好きのする、誠実そうな美青年伯爵と、初々しく美しい令嬢。神に愛されたとしても、哀しみや苦しみからはもっとも遠いところにいるカップルだと、誰もが信じていた。実際にそれからの二年間は、ふたりにとって最高に輝いた時間となった。人生で最も美しい時間を凝縮したような、二年間だった。
 のちにこのカップルを襲った試練について、ひとびとは、やりきれなさに首を横に振るばかりだった。神の恩恵を一身に受けたような美しい令嬢に襲った病魔は、彼女の美しさ完璧さを妬んだ悪魔がもたらしたのだと、アビーを知る者は皆、肩を落として囁きあった。

 その翌々年、まだ肌寒い春先に、ウィルにとっては生涯の友と呼べる親友、アーサー・ヒューズが、かねてよりの婚約者と結婚式を挙げた。その前に始まった社交シーズンで、アビーはデビューする準備を進めていたが、ふと患った風邪がもとで、デビューを先延ばしにしているところだった。

 なかなか咳が治まらない婚約者を案じて、ウィル自身、ロンドンの社交界に顔を出す予定を延ばし、この早春はケント州に留まっていた。過保護だとアビーには笑われたが、彼女は幼い頃から熱を出すことが多く、大切な時期だけに大事をとるべきだというサー・レジナルドの見立てに、ウィルは強く賛成し、出来る限り彼女の側にいるように努めた。なぜだか不安がこびりついて離れなかったのだ。
 アーサーから結婚式への招待状が届いた時も、体調が思わしくないアビーの側に残ろうとしたウィルだった。だがアビー自身が、断固として反対した。
「わたくしは大丈夫よ。ウィル、あなたは結婚式には行かなければいけないわ。大切なお友達を、祝福しなくては」
 菫色の瞳に切々と訴えられては、ウィルも考えを変えるしかなかった。ハンプシャーの館で行われたアーサーの式に出席し、新婚のふたりと家族にお祝いを伝えてから、飛ぶようにケント州に戻ってきた彼を、アビーは、満面の笑みで迎えてくれた。そして何度も、結婚式の様子を語ってほしいとねだったものだ。いつか自分たちが挙げる結婚式を重ね合わせたのだろう、彼女は飽きることなく、うっとりと、幸せそうに話に聞き入っていた。

 その夏、アビーは一旦は回復したかのように見えた。ウィルが胸をほっと撫で下ろしたところで、今度はアーサーの両親が事故に遭ったという報せが入った。夏の気配が遠ざかり、秋になろうとしている頃だった。
 アビーに急かされるようにしてウィルは単身ハンプシャーへ駆けつけ、親友と弟妹を力づけた。そのまま暫く滞在を続けていたが、冬に入り、再びアビーの体調が悪化したという連絡を受けて、急ぎ駆け戻った。サー・レジナルドの見立てでは、肺炎だった。高熱がアビーの華奢な身体を焼き、体力を奪っていった。生死を彷徨う時間が続き、辛うじて彼女の魂はこの世に留まったが、病魔は確実に彼女を蝕んでいた。もともとほっそりしていた身体はすっかり痩せてしまい、手首の細さなど、見ていて痛々しいほどだ。血色の良かった頬も、色素を失って青白く、やつれてしまった。一回りも二回りも縮んでしまったようなアビーの中で、菫色の双眸だけがやけに大きく見えた。このふたつの宝石だけは、輝きを失っていなかった。

 アビーが移動に耐えられる状態になるのを待って、サー・レジナルドは、娘をバースへと移すことにした。保養地で有名なこの地で、ゆっくりと療養させ、回復具合に応じて鉱泉治療も受けさせることに決め、バースの街中に屋敷を借りた。この街には、サー・レジナルドも親交のある、呼吸器に詳しい医師もいる。自分の患者たちを放っておくこともできず、サー・レジナルドは、できるだけ頻繁に、バースとケントを行き来することにした。彼に代わって、アビーの保護者役を買って出たのが、婚約者のウィルだった。
 領地経営の重大事は、書類を転送してもらって決裁をすることにし、日々の細々したことはレイブン男爵に補佐を頼んだ。彼の手を煩わせる全ての物事よりも、彼はアビーの側にいることを最優先とした。

 正式に婚約しているとはいえ、夫婦ではないふたりには、世間の目というものがある。アビーと同じ屋敷に寝起きするわけにはいかないため、ウィルはウィルで、バースに必要最低限の部屋を借り、数人の従僕や御者を連れて居を移し、アビーが快適に過ごせるよう、細かなことにまで気を配った。サー・レジナルドも彼を信頼し、一切を彼に委ねていた。
 毎日朝やってきては、1日アビーの側におり、夜になると借りている部屋へ帰っていく。そんな生活が、ひと冬続いていた。

 肺炎を患ってから、アビーは酷く弱ってしまって、ちょっとしたことでも熱を出し、咳が止まらなくなったり、ベッドから起き上がれなくなる日が多くなった。このシーズンこそは社交デビューをと、アビー自身楽しみにしていたが、結局それも叶わないまま時間だけが過ぎていく。

「ウィルにエスコートしてもらって、社交デビューするのが夢だったの」
 はにかんだ微笑みを浮かべながら語っていただけに、どれほどがっかりしているだろう。表向きはそうした愚痴を口にしないものの、デビューの夢が遠のいたことが、アビーに大きな打撃を与えているのではないか。このところめっきり弱り、ベッドから自力では動けないまま一日を過ごしている彼女を目にするたび、ウィルのこころは痛んだ。ベッドの傍らで、ウィルは自分にできることを全てやり尽くすつもりでいた。様々な新聞や本を読み上げてやることも、気分を変えるためにベッドから窓際の長椅子まで抱き抱えて運んでやることも、毎日飽きずに繰り返した。ただひとつ、残念なのは、ウィル自身には、アビーの病を治す技術も知識もないことだ。

 日に日に食欲が衰え、肌が透き通るように血色を失っていく彼女の側で微笑んでいることが、時折、堪らなくなることがある。じきにこの時間も奪われてしまうのではないかという恐怖で、胸が塞がれてしまうのだ。触れることのできるアビーの腕は、すっかり細くなってしまって、庭に立つ枯れ木の枝のようだった。ぽきりと容易く折れてしまいそうな腕だった。今では本を一冊持ち上げることもできないくらいに、痩せてしまった腕。もちろん腕だけではなく、彼女の身体も、骨ごと一回りも二回りも小さくなってしまったkのようだ。バースに来た頃よりも、アビーは確実に痩せ衰えていた。主治医も首を横に振るばかりで、眉間の皺が深まるばかりだ。
 強い風が吹けば、軽々と飛んでいってしまいそうに、アビーは細くなっていた。彼女の命の火が不意に消えてしまいそうな不安が、ふと気づくと、ウィルの周りをひたひたと取り囲んでいる。ウィルだけではない。甲斐甲斐しく彼女の世話を焼く使用人たちも、屋敷の中に立ち込めている不安の霧を、感じ取っている。月が変わるごとに、皆の顔から笑顔が減り、使用人部屋にも心配そうな囁きが渦巻いている。

 アビーが過ごす屋敷のこじんまりとした庭で、寒さに頬を赤くしながら、外気に晒される僅かな時間が、ウィルに呼吸を取り戻させる貴重な機会となっていた。バースにはそれほど大きな屋敷はなく、アビーが滞在している屋敷も少人数で切り盛りがしやすい規模のものであったが、庭はよく手入れされ、夏にはテラスにテーブルセットを出して、気持ちよくお茶が飲めそうだった。外気に耐えて咲いている花はなく、木枯らしが木々の葉を吹き落としてしまったため、寂しげに、むき出しの枝が空に向かって伸びている様子しか眺められないが、刺すように冷たい空気が、ウィルに生きているという実感を取り戻させてくれる。

 熱や咳に絶え間なく苦しんでいるアビーに比べれば、看護する側のウィルには、精神的な疲労の蓄積はあっても、肉体的な苦しみはない。華奢な彼女を蝕む痛みや苦しみを、せめて一部だけでもこの身が代わって引き受けられればと願いはしても、叶うことはない。
 愛する者が苦しむ様子を、ただ黙って眺めているしかできないというのは、何よりも重い責め苦だった。病と闘えるのはアビーだけで、ウィルは手を差し伸べることすら許されないのだ。それは、じわじわと看護する側の精神を食いちぎっていく。
 肌を切るような外気に身を晒することでしか、ウィルはアビーの苦しみを疑似体験できない。海を渡ってきた風が、時に激しく、コートを吹き上げるようにしてウィルをもみくちゃにしていく。自然がぶつけてくる暴力的なエネルギーに、無防備に身を任せることでしか、身体の底に渦巻く衝動的な想いを人知れず昇華する術はなかった。

 なぜアビーだけ苦しまなくてはならないのか。なぜ自分たちだけがこのような目に遭わなくてはならないのか。

 理不尽な現実への不満は、日々音もなく身の底に降り積もっていく。それを全て風に攫っていってもらうかのように、ウィルは、庭に立ち続ける。

 屋敷の中に一歩戻れば、風の中で何を思ったかなどおくびにも出さず、ウィルはいつも通りに振る舞った。寒さで強張った顔の筋肉も、暖かく保たれた室内では、ゆるゆると解けていく。ほんの少しの時間、アビーの側を離れていたに過ぎなくても、ウィルは、自分の不在中に変わったことはなかったかをメイドに尋ね、暖炉の前で肌に温もりを取り戻してから、階段を上る。
 この屋敷でもっとも日当たりの良い部屋のドアを開けると、菫色の眼差しとぶつかった。まだ熱が治まらないのか、頬を紅潮させて、瞳を潤ませて、枕の上でアビーが微笑んでいる。反射的にウィルも微笑みを貼り付け、彼女の枕元に置かれた椅子に腰を下ろした。

「よく眠れた?」
「うつらうつらしていたわ」
 じっとりと汗ばんだ額を、ウィルはナイトテーブルの上に置かれた洗面器に浸し、絞った布で、そっと拭ってやった。気持ち良さそうに、アビーが目を細める。
「喉は渇いてない?」
「ええ、大丈夫」
 彼女の白い額に片手を置くと、まだ酷く熱かった。薬が効いていないのだろうか。医者に確認しなければならないと、ウィルは微笑みながら、胸の裡で考えた。アビーは、ウィルの手の冷たさが気持ちよいのだろう、再び目を瞑っている。

「ねえ、ウィル」
 熱のせいで少しかさついた唇に名前を呼ばれ、ウィルは目の前のアビーに意識を戻した。彼女はまだ、目を瞑ったままだ。

「なんだい?」
「今年もデビューができなくて、ごめんなさい。色々と準備を手伝ってくれたのに」
「君が謝ることじゃない。それに、まだシーズンは残ってる。早く治して、エスコートをさせて欲しいな」
「そうね」
 アビーは口元に微かな笑みを浮かべ、相槌を打ったが、あまり熱心な口調ではなかった。熱のせいで気弱になっているのだと思い、ウィルはなおも口を開こうとしたが、彼女がぱっちりと目を開けたので、声は出さずに黙って様子を見守った。
 アビーは、天井の一点を見つめていた。だが実際には、どこかもっと遠いところを見ていたのかもしれない。
 しっかりとした声が、思いがけない言葉を紡いだ。

「もしもわたくしがいなくなったら――」
「アビー!」
 咄嗟にウィルが額から手を離し、強くたしなめるように名を呼んだが、彼女は傍らに座る婚約者に目を遣ることなく、どこか遠くを眺めたまま、静かに続けた。

「もしもの話よ。現実の話ではないのだもの、いいでしょう?」
 そう言われては、ウィルもそれ以上強く言うことができず、両手を膝の上で固く握り締め、こみ上げてくる焦燥を堪えた。一方のアビーは、穏やかで、静かなままだった。
「そうなった時は、ウィル、あなたは幸せになって下さらなくてはいけないわ。あなたを愛するひとが現れたら、その手を取ってあげて」

 天気の話をしているかのようなさりげなさで紡がれた言葉は、張り詰めきっていたウィルを酷く打ちのめした。アビーと生きる将来のために、こうして共に頑張っているのに、肝心のアビーが望みもしない仮定の話をするようでは、心もとなかった。
 うなだれ、微笑みすらどこかに忘れて、ウィルは苦悩を茶色の眼差しに宿して婚約者を見た。
「そんな将来は、想像もしたくない。君と生きる未来しか、私は望んでいないんだ」
 君が未来そのものなのだと、なぜこの気持ちをわかってくれないのだ。
 振り絞るようにして吐き出した言葉に続く台詞は、声にはならなかったが、アビーの耳は確かに聞き取ったようだった。この時になって初めて、彼女は顔をウィルの方へと傾けると、力づけるように微笑みを浮かべた。

「そうね。あなたと一緒にわたくしも生きていきたいわ。だからさっきのは、万が一の話よ」
 ウィルの葛藤とは対照的に、アビーの菫色の双眸は、春の空のようにどこまでも穏やかだった。注意して見れば、その中に諦念の陰を見出すこともできたのだが、その時のウィルには彼女の真意を冷静に推し量るだけの余裕がなかった。この午後、庭で風に預けた以上の感情の嵐が、ウィルの中を渦巻き、胸を激しく締め付けていた。傍から見ればきっと、ウィルの方が青白い顔色をしていたに違いない。
 アビーの眼差しには、諦念の翳りと、ウィルを苦しませていることへの哀しみが、炎となって音もなく燃えていた。が、彼女の声には、分別をわきまえた淑女らしい落ち着きのみが響いており、その眼差しをよく観察しなければ、彼女が上手に隠した感情を読み取ることはできなかった。

「でも、これだけは伝えておきたかったの」
 ひとつひとつの言葉を、意味を噛みしめるように、大切に大切に、彼女は言葉を声に乗せた。

「あなたは素晴らしいひとだわ。だから、わたくしのことだけにいつまでも捕らわれないでいて欲しいの。あなたがわたくしを想うのと同じくらい、わたくしも、あなたの幸せをこころから願っているのよ」

 あなたは幸せにならなくてはいけないひとだわ。

 そこまで言い終えると、アビーは疲れたようにそっと息を吐き、目を閉じた。これまでずっと胸の裡に秘めていた願いを声に出したことで、彼女の中では、任務をやり遂げたという達成感と、ウィルと共にこれからもずっと過ごしていきたいという焼けつくような願いが、複雑に混ざり合い、溶け合っていた。そしてこのところ彼女の全身を染め上げるように、足元から這い登ってくる得体の知れない確信――この夏を彼と共に迎えるのは無理だろうという、根拠のない確信が、いよいよ彼女の頭のてっぺんまで染め上げるのを感じた。以前からなぜか、全身がそれに染まれば、アビーの肉体は底のない水底にずるずると引きずりこまれていき、二度と浮かび上がってはこれないことは解っていた。だから彼女は、それまでにウィルに伝えておかねばならなかったのだ。彼を解放する言葉を。彼女の願いを。
 予感が正しかったことを証明するかのように、彼女の全身は鉛のように重くなり、指先ひとつを動かすことですら、難しかった。意識もぼんやりと拡散して、現実と夢の境が稀薄になっていく。
 ウィルに今、彼女の願いを届けても、彼が受け止められないことはわかっていた。これから先、時間が経ってから、ふとした時に思い出してくれればいいと、アビーは意識を手放しながら思った。

 まるでこの世への未練を失くしたかのように、アビーの身体は急速に弱り、春が来るのと入れ替わるように、菫色の双眸は永久に閉ざされた。ウィルにしてみれば、彼女から思いがけない言葉をかけられ、その衝撃と折り合いをつけられないうちの、あっという間の出来事だった。彼のこころが麻痺しているうちに、葬儀も終わってしまった。誰に何の言葉をかけられたのか、後から何も思い出せない。サー・レジナルドの横で、亡きひとの婚約者として機械的に応対することしかできなかった。

 彼が漸く、アビーの死を実感したのは、葬儀も全て終わってからのことだった。
 アビーが借りていた屋敷をウィルは引き続き自分が借り上げ、今年は夏が終わるまでそこで喪に服すつもりだった。伯爵家当主という立場では、いつまでもアビーの死ばかりを嘆いていられない。せめてシーズンが終わるまではと、アーサーからのハウスパーティーへの招待なども一切断って、彼は屋敷に閉じこもった。
 サー・レジナルドもウィルに配慮して、アビーが使っていた部屋は、メイドが最低限の整理はしたものの、そのまま残しておいてくれた。

 サー・レジナルドたちも去り、ウィルとその従者だけになった静かな屋敷の、2階の南端の部屋へ、葬儀のあと初めてウィルは上っていった。靴音だけがやけに大きく響く、虚ろな廊下を進み、ウィルは震える手でその部屋のドアを開けた。
 この時期には珍しい、よく晴れた午後だった。やわらかな日差しが室内を明るく照らし出し、ここに住んでいたひとが遺していった気配に、部屋中が耳を澄ましているようだった。
 特に、窓辺に置かれたベッドの上には、気配が色濃くたちこめているような気がした。シーツも枕カバーも洗濯して清潔なものに取り替えられ、きちんと整えられていても、そこにはまだアビーの息遣いが、はっきりと残っていた。

 ベッドの横まで辿り着くと、ウィルは崩れ落ちるように膝をつき、ぶるぶると震える手で、シーツに触れた。まだそこに温もりが残っていてもおかしくないような、アビーの気配がすぐ側でするのに、指が感じ取るのは冷たい布の感触だけだ。目を閉じれば、枕の上に柔らかな髪の毛を散らし、こちらを見上げて微笑む彼女の面影がはっきりと浮かぶのに、目を開ければ、そこにあるのは空っぽの寝台だけだ。
 ウィルはベッドへと突っ伏し、呻くように愛しい名前を呼んだ。
「アビー」

 シーツに残る彼女の香りが、慰めるようにウィルをそっと包み込む。胸いっぱいに彼女の香りを吸い込みながら、ウィルは泣いた。吼えるように号泣し、アビーの幻を掻き抱いた。

2010/11/13up、2011/02/12改訂


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