こころの鍵を探して

第一章 幻惑の夜[4]

 バリー伯爵アーサー・ヒューズは、気難しい顔つきをしていることが多かった。広い額や眉間には皺が寄り、唇はきつく引き結ばれている――それが、世間が抱いているバリー伯爵の印象だった。そのため実際の年齢よりも落ち着いて見られることも多い。弟妹と比べると、もともと感情をさらけ出すことも少ない青年であったが、生来の生真面目な性分に加えて、若くして双肩に重責を背負っていることが、彼から若者らしさを奪ってしまったのだろう。

 両親から深い愛情を受けて育ったものの、父伯爵はこの長男に、いずれは侯爵家をも背負う跡取りとしての自覚を、幼い頃から厳しく叩き込んだ。広大な領地と一族への責任を早くから意識させ、後継者教育を行った。一本気で真面目なアーサーは、父や一族の期待に応えるべく、懸命に自制し、努力した。そのため、悪戯好きな弟や、真綿にくるまれたように育てられた妹と比べると、彼はどちらかといえば相手を威圧するような厳しさと、居ずまいを正させるような堅苦しさを備えて育った。

 整った顔立ちであることも、彼の場合はマイナスに作用した。表情が乏しいため、端正な顔立ちが強調されて、余計に相手に緊張を強いるのだ。よく知る者が見れば、僅かに動く眉や口元から、どういった感情を覚えているか察することはできるのだが、家族や友人以外の者からすれば、アーサーはいつも気難しい顔つきをしている青年、ということになってしまうのだった。

 自他共に認める、融通のきかない性格だけあって、サラもブラッドも何度もこの長兄とは衝突してきたが、彼が家族のことを誰よりも思い遣っていることを疑ったことはなかった。
 サラも、この兄に何度となく叱られ、口うるさい兄だと思ったこともあるが、アーサーへの愛情は揺るがない。両親の事故の後は特に、親代わりとして、彼はサラのためにいつも行動してくれた。

 そして今も、彼はサラのために、これまでにない雷を落とそうとしている。アーサーの眉間にこれほど深い皺が寄り、灰色の瞳が怒りに煌くところを、サラはまだ見たことがなかった。その怒りが向く先は、サラの隣に立つアーサー自身の親友に対してであることは、疑いようもない。ウィルは常にアーサーのよき理解者であったから、このように突き刺すような視線を向けられたことなど、なかったのではなかろうか。
 怒りを露わにしたアーサーを前にしても、ウィルは一歩も引くことなく、静けさをたたえた山のような落ち着きをどっしりと保って、親友に対峙している。兄から発される怒気を浴びて、サラなどは、身が竦む思いであるのに、彼は怯むことなく見返している。そのふたりを横目に、アーサーの横に立つライアンは、堪えきれない様子で白い歯を覗かせていた。先ほどウィルに追い払われた腹いせに、アーサーを呼んできたのは明らかだった。サラは嫌悪と怒りに満ちた眼差しを彼に向けたが、アーサーが咳払いする音を聞いて、兄へと注意を戻した。
 アーサーの声は、これまで聞いたことがないくらいに硬かった。

「一体これはどういうことだ、ウィル」
「どういうこと、というのは?」
 平静に問い返すウィルの声は、いつもと変わらない。

「ライアン卿が先ほど言った通りだ。君ともあろう者が、このようなところで、よりによって我が妹の名誉を傷つけようとするとは」
「それは誤解だ、アーサー。サラの名誉は傷ついてなどいない」
 きっぱりとウィルが否定したものの、アーサーは困惑を隠せない様子で、深いため息をついた。
「君が何と言おうと、目撃者がいることだ。確かに見たと言われれば、人はそちらを信じるだろう。そうすれば、サラはふしだらな娘と見なされ、社交界から爪弾きにされたまま、一生を送ることになる。嫁の貰い手もないだろう」
「あなたの信頼はびくともしないですがね、伯爵」
 ウィルが何か口にしようとするより先んじて、ライアンが声を投げた。唇には酷薄な笑みが浮かんでおり、ウィルに厳しい眼差しを向けられても、それはいっそう深くなっただけだった。王子様然とした顔には、先ほど食らった制裁の痕は、目立つほど残っていない。従僕にでも命じて早々に手当てさせたのか、紫色の斑点が、小さく浮かんでいるだけだった。

「レディ・サラは傷ものと見なされてしまうでしょう。よくご存知ですよね、社交界ではふしだらな令嬢が嫌悪されていることは」
「私がきちんと証言しよう。サラは傷つけられていないと」
 ライアンの言葉が聞こえなかったかのように、ウィルはアーサーに向き直った。だが、アーサーの眉間の皺は深くなる一方だった。

「当事者の声と、第三者の声であれば、第三者の声に耳を傾けるだろう。無論君には長年培ってきた社交界での絶対的な信用がある。だからそれほどダメージにはならないだろうが、デビューして二年目のサラにとっては、大きな打撃だ」
 当事者のサラが目の前にいることなど忘れたかのように、アーサーは苦々しい口調で言った。そう簡単に名声が揺らぐことのない家柄ではあるが、身内のスキャンダルはできれば避けたいものだ。更に、潔癖なアーサーにとって、身持ちの悪い妹を持ったなどという悪評は、我慢ならないのだった。
「残念ながら、私は目撃してしまいましたから・・・・・・。他にも誰か見ていた者がいたかもしれません」
 火に油を注ぐように、ライアンが肩を竦めて言った。
「どう責任を取るか、考えなくてはならない。サラを一方的に傷つけられて、祖父が黙っているはずもないし、私もこの怒りを収めることなどできないからな」
 アーサーの言葉は理解できる。名門の一人娘がふしだらだと烙印を押されようものなら、レイモンド侯爵が黙ってはいないだろう。しかし、サラとは兄妹のようなものなのだ。彼らが言う『責任』が、サラとの結婚を意味しているのは明白だが、この場で即決などできるはずがない。

 以前アーサーがウィルに、サラを妻にどうかと持ちかけた話も、結局はあの後、サラの前で再び持ち上がることはなかった。恐らく、ウィルがやんわりと断ったのだろう。妻を持つことは後回しにしたいと、あの時も言っていたから、結婚というのは今のウィルにとっては遠い話なのだ。それを今すぐ決断しろというのは、乱暴ではあるが、無茶を迫るアーサーの心中は解る。
 何らかの打開策がないものかと、ウィルが口を開こうとするのを察したかのように、絶妙なタイミングで、ライアンが割って入った。
「ひとつだけ、円満に解決する方法がありますよ」

 全員の注目を浴び、彼は満足そうに微笑んだ。見せ場に臨む役者のように、芝居がかった仕草で、彼はサラへと片手を差し伸べた。
「円満にだと?」
 ぶっきらぼうにアーサーが問い返しても、ライアンは一向に動じた様子もなく、にっこりと笑った。
「バリー伯爵、私とレディ・サラの婚約を発表してしまえば良いのです」
「何だって?」
 思いがけない提案に、アーサーが片眉を跳ね上げ、サラは声にならない叫びを上げた。目の端で、隣のウィルが身体を固くするのを捉えたが、それどころではなかった。サラにとってはなお悪い展開だった。ライアン卿の花嫁になど、なれるはずがない。彼に身体を触れられた時のおぞましさが肌の上に甦り、サラは顔色を失って、自分自身を守るように抱きしめた。

 何を言い出すのだと、アーサーが鼻であしらってくれればいい。祈るように兄を見つめたが、アーサーは興味を引かれたように、ライアンの方へと顔を向けた。待ってましたとばかりに、ライアンは自信たっぷりに構えている。アーサーの、疑いの滲んだ声音にも怯むことなく、口元には笑みを絶やさない。
「君とサラの婚約だって?」
「ええ。仮に、ウィロビー伯爵がレディ・サラの名誉を傷つけようとした場面を見た者がいたとしても、噂が広まる前に、社交界があっと驚く報せを流してしまえばいいのです。そうすれば噂など、広がる前に消えてしまうでしょう」
 静かな夜気に包まれたバルコニーを、ライアンの朗々とした声が渡っていく。サラにとっては鳥肌の立つような、ぞっとする内容だが、兄は真剣に耳を傾けている。

「それが、君とサラの婚約発表だというのか?」
「そうです。私がレディ・サラに求婚しても、誰も何も疑問に思わないでしょう。婚約発表も、なるべくしてなったと受け止められるでしょうし、社交界のお喋り雀たちの関心は、どういった結婚式になるのかとか、誰が招待されるかといったことに向くでしょう」
 その台詞を言いたいがために、あのタイミングでライアンがバルコニーへと戻ってきたことは明らかだった。その裏には、婚家へとサラがもたらす莫大な持参金が絡んでいることも、透けて見える。サラでさえはっきりと読み取れるくらいだから、兄やウィルがそれに気づかないはずはない。
 けれども彼女にとって絶望的なことに、兄の関心は、不名誉な噂をどうやって揉み消すかにかかっているようだった。もう一方の当事者であるウィルは、沈黙を貫いたまま、アーサーとライアンの会話の行方を見守っている。

 サラ自身が彼らの会話に割って入り、一見好青年を装っている男の真意を暴き出したいところだが、アーサーの発するぴりぴりとした空気が、それを許さなかった。今サラが口出しすることを、アーサーは望まない。不始末をしでかした妹の尻拭いは、どれほど面倒であっても、家長である彼がしなければならないのだ。このような厄介ごとを引き起こした本人の抗弁など、耳に入れたくもない。言い訳をするくらいならば、厄介ごとを引き起こさなければいいのだ。アーサーは頑として、サラを拒絶する空気を発していた。
 兄がそのような状態でいる時に、無理に割って入ろうとしても、何の解決にもならないことを、サラはこれまでの経験から知っていた。じりじりするような想いで彼らの会話を見守るしかできないが、もしもこのまま、悪い方向に将来が決められてしまうようであれば、兄の雷など怖れずに、彼女自身が断固として抗議をするつもりだった。

 アーサーは、問題をひとつひとつ確認するように、ライアンへと冷静に尋ねた。
「なるほど。だが、妹の名誉が傷つけられたという事実は変わらないのではないか?君と結婚したとしても、妹はふしだらな女性という目で見られてしまうのでは?」
「ご心配には及びません、バリー伯爵」
 ライアンの唇に、歪んだ笑みが浮かぶ。

「ウィロビー伯爵とレディ・サラが兄妹同然の仲だということは、誰もが知っています。私との結婚が決まった彼女と離れがたくて、伯爵はついつい彼女を抱擁してしまったのです。兄妹であれば、それくらいは当然のこと。伯爵がレディ・サラを非常に大切にし、可愛がっていたことは、有名ですからね。皆も、妹離れは辛いものだと、彼に理解を示すでしょう」
 言い回しは丁寧ではあるものの、内容はウィルを嘲るものであることに、アーサーが気づかないはずがない。だが彼は、責任を取ろうとしない親友へ思うところがあるのか、ライアンを別段咎めたてようとはしなかった。

 一方、妹離れのできない男だと侮蔑されたウィルも、両の拳に力を込めたものの、口を噤んだままだった。サラは縋るように、兄代わりの青年へとちらりと目をやったものの、動く気配のない彼に小さな怒りを覚えて、肩を落とした。思わずため息が零れる。
 突然サラと結婚しろというのも無茶な話だとは思うが、それにしたって、何らかの解決策を打つべく、アーサーに談判くらいしてくれてもいいだろう。散々兄のような振る舞いをしてきたくせに、こういう肝心な時に、妹分を助けてくれないなんて。

 サラは、ぎゅっと唇を噛んだ。確かにウィルの前で、ライアンに求婚されたら受けるべきかもしれないという話はした。こころにもない言葉ではあったが、『割り切った結婚』をするのが義務だとも言った。
 しかし本心では、ライアンの妻になると考えただけで、全身の震えが止まらない。彼の妻になって、純潔を捧げるなんて、真っ平ごめんだった。
 こんなことならば、兄や母の期待を裏切ってでも、レイノルズ館に留まっておくのだった。アーサーと喧嘩してでも、そうすればよかった。苦い想いを噛みしめるサラをよそに、男たちの話は次へと進んでいく。

「世間はそれほど気にはしないと?」
「ええ。あなただってそう思ってらっしゃるでしょう?気の毒なウィロビー伯爵を咎め立てするよりも、私たちの結婚式の方が、よほど魅力的な話題であると」
 アーサーは言葉にしなかったが、短い沈黙が、肯定をはっきりと意味していた。サラは喉を締めつけられるような圧迫感を覚えた。まるでこれから処刑台の上に上がらされ、首を切られるような気分だった。

 アーサーの灰色の瞳が、ライアンの本心を見透かすように、冷たく向けられた。
「なぜ君が、そこまで妹のために?」
 この問いかけに、ライアンは心外だとでも言うように、両手を大袈裟に広げた。
「敢えて言葉にするまでもないと思っていましたが・・・・・・もちろん私が、レディ・サラに深い敬意と愛情を覚えているからですよ、バリー伯爵。彼女を妻に迎えることが、私の何よりの望みなのです」

 もっともらしく切々と訴える彼の声も、サラの胸には、欠片も響かなかった。言葉に重みがないのだ。耳障りの良い言葉を並べ立ててはいるが、こころが伴わない。ライアンの双眸を見れば、それは一目瞭然だった。美しい空色の瞳には、焦がれるような恋情の炎は見られない。冷静に、アーサーの反応を窺っているのだ。真実、恋焦がれる男性ならば、もっと必死に訴えかけそうなものなのに、ライアンの言葉にも表情にも、芝居がかった計算が見え隠れする。
 彼が本当に望んでいるのは、サラの背後にある持参金と、ヒューズ一族の名声と、富だった。

 無論、社交界の紳士の大多数が、それを欲するだろう。こちら側とて、その点は理解している。それを解った上で、アーサーは、不名誉な評判と交換する価値のある取引だと、判断したようだった。
 兄は、実業家の顔で、ライアンに向き直った。

「良かろう。ウィルトン子爵家ならば、我が家の婿としても申し分ない。明日にでも父上を訪ねて、詳細を詰めよう」
「ありがとうございます、伯爵」
 冷静な表情を保ったまま、アーサーが差し出した片手を、喜色満面のライアンが、飛びつくように握り締めようとした。

 やめて。待ってちょうだい、アーサー。

 サラが悲鳴のように抗議の声を上げるのに僅かに先んじて、心臓を突き刺すような鋭い声が、ライアンの動きを止めた。

「アーサー、待ってくれ」

 それまでずっと沈黙を守っていたウィルが、一歩、前に進み出た。彼の表情からは、一切の感情がそぎ落とされていた。これまでアーサーに向けたことのないような、硬く冷たい声に、アーサーは、冷徹にさえ見える表情を向ける。横で見守るサラの方が、凍えてしまいそうなほど、ふたりの間に流れる空気は、温度を失っていた。
 恐らくはサラの知らない、やり手の実業家としての一面を、ふたりは見せているのだ。感情の入る余地のない、事務的な口調で、ウィルは親友に向き直った。

「まだ私の意見を言っていない。それを聞かずして彼の案を飲むのは、筋が通らないだろう」
「意見があるというなら、聞かせてもらおう」
 アーサーは、挑発するように片眉を跳ね上げたが、ウィルは何の変化も見せず、淡々と続けた。あらゆる感情を飲み下し、彼はきっぱりと言い切った。

「確かに私が、サラの名誉を傷つけた。君が望むような形で、責任を取ろう」
「何だって?」
 アーサーは軽く瞠目しただけで、唇を引き結んだままだったが、代わりに大きな声を上げたのは、ライアンだった。サラはただ、最悪の成り行きに、呆然と佇むことしかできない。ウィルが今口にしたのは、サラとの結婚を承諾するという意味に他ならない。

 ライアンが、掴みかかるようにしてウィルの前へと迫った。先ほどまでの余裕は、どこにもなかった。
「今になって認めるというのか!?おかしいじゃないか、あれほど否定していたっていうのに・・・」
「そこまでにしておくがいい」

 氷のような双眸で見返すだけのウィルに代わり、ライアンを止めたのは、アーサーの厳粛な声だった。灰色の瞳に苛立ちを浮かべ、彼は汚いものを見るように、ライアンを眺めた。ライアンとの間に、アーサーは容赦なく一線を画し、それをはっきりと示した。
「これ以上は、ウィロビー伯爵への侮辱行為に当たる。身の程をわきまえることだな」
「そんな・・・!」
 ウィルに背中を向け、今度はアーサーへと訴えかけようとするライアンに、アーサーは無慈悲に告げた。

「これから先は、私と彼の話し合いになる。先ほどの申し出には感謝するが、これ以上は君が関わることではない」
 厳しく唇を引き結んだアーサーには、口出しは許さないという厳然たる決意が表れており、ライアンが入り込む余地はなかった。ウィロビー伯爵に加えて、バリー伯爵の機嫌を損ねるのは、ライアンにとってはリスクが大きすぎる。限りなく少なくなったチャンスを、全くのゼロに潰すことは、何としても避けなくてはならなかった。可能性がなくなっただけでなく、伯爵の怒りを買って更に悪い事態を招くのは、あまりにも愚かな行為だ。青年は肩を落とすと、憎憎しげな視線をウィルに向けてから、怒りも露わに立ち去った。

 足音の消えたバルコニーで、親友同士は、無言で向かい合っていた。アーサーからは、苛立ちや怒りといった負の感情が消えている。彼を包む空気にも、肌を刺すような緊張はない。
 それに対してウィルは、感情の読み取れない表情を浮かべていた。ふたりとも、この場にいるサラのことなど、忘れ去ってしまったかのようだった。
 いつもの口振りを取り戻し、アーサーが穏やかに口を開いた。

「責任を取るという言葉を、信じていいのか?」
「ああ。詳しいことについては、明日の午前中に君の屋敷を訪ねるから、そこで決めるとしよう」
「そうだな」
 アーサーの口元が綻んだが、一方のウィルは、仮面を着けたように、表情を強張らせたままだった。

「そうと決まれば早速――」
「待ってちょうだい!」

 アーサーの言葉を遮ったのは、サラの、怒りと苛立ちがないまぜになった叫びだった。両手を胸の前で祈るように握り締め、真っ青な瞳に炎を揺らめかせて、彼女は怯むことなく真っ直ぐに兄を見据えていた。
 アーサーの眉間に、再び深い皺が寄る。彼の顔にも、妹への怒りと苛立ちがはっきりと露わになり、声にも不快感が溢れていた。

「お前は黙っていなさい、サラ」
「いいえ、黙ってなどいられないわ!」
 猛然と立ち向かうサラの、頑固そうな顎は、向かい合う長兄とそっくりだった。どちらも互いに譲る気配がなく、灰色と真っ青な瞳が、火花を散らした。
「わたくしに関わることですもの、黙っているものですか。ウィルに責任を取らせようとするのはおかしいわ、アーサー。彼はわたくしの名誉を、傷つけてなどいないんですもの」
「お前が何と言い訳をしようと、無駄だ。お前の言い分より、噂の方を世間は信じる。それにサラ、大体なぜこのようなところにふたりきりでいたんだ?誤解だとしても、誤解を招くような軽率な行動をするお前が悪い。あれほどマナーを教え込んだというのに・・・」
 疲れきった様子でため息を吐くアーサーの顔色は悪く、年齢よりも老けて見えた。兄にも多大な負担をかけていると気づかされ、サラは少しだけ怯んだが、ここで頑張らなければと踏み止まった。

「わたくしが悪いのに、その責任をウィルになすりつけるのはおかしいわ」
「つべこべ言うな。お前が口を出すことではない」
「そんな・・・」
「サラ」

 これ以上は絶対に許さないという、聞き覚えのある頑なな口振りで名前を呼ばれたら、アーサーには何を言っても無駄だ。頑としてサラの言い分に耳を塞ぐだろう。この言い方で名前を呼ばれて、サラの言い分が通ったことなんて、一度もないのだから。
 泣き出したい気分になって、サラは、兄妹の遣り取りを黙って見つめていたウィルに視線を移した。いつもは優しさに溢れている茶色の眼差しは、今は感情を消して、アーサーへと向けられたままだった。サラの方を、ちらりとも見ようとしない。絶望を覚えながら、サラは、恋しい男性を見つめた。

 腕組みをするアーサーに、ウィルは、事務的に確認しただけだった。
「では、明日の午前中に話し合うとしよう」
「ああ」
 アーサーが頷くのを捉えた途端、ウィルは足早に室内へと向かおうとした。さっさとこの場を立ち去りたいといわんばかりだった。堪えきれず、サラは背中へと呼びかけた。

「ウィル――」
 立ち止まり、ちらりとこちらを振り向いたウィルの瞳に浮かぶものを見て、サラはそれ以上の言葉を凍りつかせた。サラを一瞥すると、ウィルはすぐに歩き出し、直に室内へと消えていった。
 アーサーが、大きな息を吐きながら、妹の肩を抱いた。
「お前にとっては、これが一番良い結果だ。おそらくは、彼にとっても」
 そんなはずがないわ。

 口には出さずに、サラは兄の言葉に、黙って首を横に振った。まるで声の出し方を忘れてしまったかのように、言葉が出てこない。あのウィルの瞳が、サラの声をすっかりと奪ってしまったのだ。
 振り向いた時、漸くサラに注がれた茶色の眼差しには、束の間、怒りと嫌悪の炎が浮かんで消えた。見間違いではない。幼い頃からウィルをずっと見つめ続けてきたサラだからこそ、彼が浮かべる感情を、見誤ることはなかった。慈しみ、守ってくれたあの眼差しに、おぞましいもののように見つめられる日が来るなんて、思いもしなかった。

 妻を迎える気はないと言っていたのに、女性として見ることのできないサラと、結婚しなければならなくなったのだ。それも、彼には覚えのない不名誉な行為の償いとして。いつも誠実な愛情を注いでくれた彼であっても、厄介な責任を押しつけられては、サラを憎まずにはいられないだろう。

 私だって、君の幸せを願っている

 そう言ってくれたのは、ほんの少しばかり前のことなのに、ふたりを取り巻く状況はすっかり変わってしまった。
 ライアンが言うところの不名誉な行為とは、ウィルとの間に起こった、説明しがたい出来事のことだろう。もう少しでふたりの唇が触れ合いそうになったが、あれは何かの間違いに過ぎない。ウィルがサラの頬以外の場所にキスをするなんて、あり得ないのだから。

 それなのに彼は、やってもいない行為を償うために、サラとの結婚を承諾した。紳士としては褒められるべき決断なのだろうが、サラには到底受け容れられなかった。あんな風に見つめられるぐらいなら、ライアンとの取引を飲んだ方が、まだましだというくらいに思える。
 これからずっと、嫌悪されたままなのだろうか。
 そんな結婚が、上手くいくとは到底思えなかった。それにウィルには、愛し続けているひとがいる。サラが彼に愛されることはないのだ。視界が、絶望の色に染まっていく。愛おしい相手から、憎まれたまま、その人の妻になるなんて。これ以上の皮肉があるだろうか。

「すっかり身体が冷え切っているじゃないか。今夜はもう家に帰って、ベッシーに面倒をみてもらいなさい」
 アーサーが労わるように、サラの背中へと手を回して、思いやりをこめて囁いたが、兄の言葉は、サラの中を虚ろに通り過ぎていくだけだった。何の反応も示さず、紙のように白い顔色をした妹を、アーサーは心配そうに見下ろしたが、嵐のように巻き起こった今夜の出来事のせいでサラも疲れているのだと結論づけた。この上は、有能なベッシーの手に委ねて、早く休ませるのがいいだろう。
 このまま一度、妻のもとへサラを連れて行くべきかとも思ったが、事の成りゆきを知れば、ベッキーが大騒ぎするのは目に見えている。この状態のサラをひとりで先に帰せば、ベッキーに小言を言われるのは間違いないが、今のサラは、同情されることを望んでなどいないだろう。控え室で待っているジェイに任せ、気心の知れたベッシーとジェイの手に委ねて、休息させてやるのが、やはり最善に思われた。

 アーサーに促されて歩き出しても、機械的に足を出すだけで、サラのこころを占めるのは、ウィルが最後に向けた眼差しのことだけだった。これからずっと、あんな目で見られるのだろうか。首を切られるよりも、辛く苦しい時間が、サラを待ち受けている。サラだけではなく、ウィルにとっても辛い時間になるだろう。彼を巻き込むことだけは、避けなければならない。アーサーやウィルが何と言っても、それだけは、絶対に譲ってはならないのだ。

 なぜこんなことになってしまったのだろう。

 頭の中をぐるぐると、答えの出ない問いかけが空回りしている。
 サラの白い頬を、一粒だけ、涙が伝った。月明かりを受けて真珠のように煌いたそれは、音もなく胸元へと吸い込まれていった。

2010/10/02up


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