こころの鍵を探して

第一章 幻惑の夜[3]

 社交界のひとびとが知っているウィロビー伯爵は、いつも笑顔を浮かべた、愛想のよい青年である。誰に対しても物腰柔らかに接し、その場の空気を壊すような発言をした者があっても、物柔らかにフォローをする。決して機嫌を損ねることのない人物というイメージが、定着している。
 そのため、彼に対峙することが、これほど困難なことだとは、予想だにしなかった。彼が誰かの言動に怒りを覚えることはないと、高をくくっていたのだ。

 鋭く尖り、真っ直ぐに射すくめてくる茶色の双眸に向かい合うのは、ライアンにとって非常に努力の要ることだった。百の言葉を浴びせられるより余程雄弁な眼差しが、紳士としてあるまじき行動に走ろうとしていた彼を、真っ向から咎めているのだ。父のウィルトン子爵にだって、このような叱責を受けたことはない。
 ともすれば足が勝手に回れ右をして逃げ出したくなるところを、腹に力を入れて堪え、どうにか体面を保っていた。ここであっさりと退散しては、レディ・サラの手前、あまりに情けなさ過ぎる。そういう計算ができるくらいには、ライアンはまだ、余裕を残していた。

 ずきずきする頬を押さえて、ライアンは、座り込んでいた床からゆっくりと立ち上がった。殴られたショックは過ぎて、ウィロビー伯爵から突然殴りつけられたことへの怒りが、ライアンの中で徐々に膨らみつつあった。
 ウィルとライアンの身長は、それほど差はなかった。ひょろりとしているものの、ライアンの身長はサラの兄たちほどには高くなく、ウィルを見下ろすことができない代わりに、見上げることもないのだった。
 ライアンが負けじと強い視線をウィルに向けると、その後ろで、びくりと身体を竦める影があった。ウィルが邪魔で、ライアンの位置からはレディ・サラの顔は見えない。先ほどまで自分の腕の中にあった温かな身体と、もう少しで手に入れるところだった彼女の唇を思い出して、ライアンの苛立ちが、いっそう募った。

 あのまま口づけを交わし、更にはもう少し彼女の体にライアンの印を刻みつけることができていれば、レディ・サラはライアンの手にほとんど落ちたも同然だった。男性慣れしていない無垢なレディならば、深い口づけと軽い愛撫に蕩けさせてしまえば、ライアンに夢中になるはずだった。これまで多くの令嬢がそうだったように、恋の手練手管に自信を持つ彼は、レディ・サラが自分の手に落ちることを信じて疑っていなかった。ライアンの計画では、社交シーズンの早い段階でレディ・サラを篭絡し、早々に婚約発表を執り行い、レイモンド侯爵家の巨大な城館で挙式をすることになっており、今シーズン後半以降は、彼女がもたらす莫大な持参金で、優雅な生活を送る予定だったのだ。

 レディ・サラを落とす上で有力なライバルになる男性を、慎重に牽制し続けてきたライアンだったが、今目の前にいるウィロビー伯爵ウィリアム・ナイトレイは、ライバルに数えていなかった。彼がレディ・サラと親しいことは知っていたが、兄妹同然の仲と聞いていたし、彼女を花嫁候補として考えている素振りも見えず、まるっきり油断していたのだ。
 バリー伯爵やフォード伯爵の代わりに、彼女のお目付け役を気取っているだけだろうか。それとも有力なライバルとなり得るのだろうか。目の前の男の真意を量りながら、ライアンは、できるだけ重々しい口調を取り繕った。
「いきなり暴力を振るうというのは、どういうことだ、ウィロビー?そちらこそ、覚悟はできているんだろうな」
 ご令嬢相手の演技には自信がある。多少なりともウィロビーを動揺させられるだろうというライアンの読みは、残念ながら当たらなかった。ウィルは両目を眇めてみせただけだったが、ライアンの周囲の空気が、ぴりぴりと引き攣ったように感じたのは、気のせいではない。逃げ出したくてうずうずしている身体を、ライアンが励ましている時だった。

「誰にものを言っているのか、わかっているのか?」
 ずしりと腹の中にまで響くような、低い声が、沈黙を破った。一瞬誰の声かわからなかったが、間違いなくそれは、目の前のウィロビー伯爵から発されたものだった。彼の足が一歩前に出ると、ライアンの足は気圧されたように一歩、後ずさった。
「お前のしたことは、彼女の名誉を傷つける行為だ。バリー伯爵やフォード伯爵がここにいれば、私と同じことをしていただろう。自分の卑劣な行為を棚に上げて、開き直るつもりなら、こちらも相応の方法で対処するまでだ」
 ライアンの喉がごくりと鳴った。彼が知るウィロビー伯爵ではなく、別人格の男が、目の前にいるかのようだった。貴族院で勢力を持つ老獪な貴族たちとも対等に渡り合うやり手だという、一部の良識ある貴族男性の間で囁かれているウィルの評判を、ライアンが知らないのは、彼にとっても残念だった。

 このまま退散するのが一番楽な方法だが、年齢もそう変わらないのに、名声も富みも全て手にしているこの男に、やり込められたままなのは癪だった。それに何より、レディ・サラとの結婚を、諦めるわけにはいかなかった。彼女の富を手にすれば、もう父親の機嫌を伺ってびくびくすることもないのだ。レディ・サラの前で、ウィロビーにこてんぱんにされたライアン・ケースというイメージのまま、撤収はできなかった。虚勢でも何でもいいから、ウィロビーと対等にやり合う男、という印象を彼女に与えてから、安全にこの場を去るのが最善と思われた。
 何しろレディ・サラは、ウィロビーの変貌ぶりにすっかり怯えてしまって、声も出ない様子ではないか。そうなれば、ライアンの切れる男ぶりを見せてから立ち去れば、もっと良い印象を与えるだろう。

 独りよがりな思考回路を忙しく働かせてから、ライアンは、縮こまりそうになる背中を伸ばして、横柄にウィルを見返した。それは、ライアンの父親が見たら慌てふためきそうなほど、爵位を持つ目上の男性への態度としては非常に具合の悪いものだった。年齢がさほど変わらないといえど、ウィルは、れっきとした伯爵であり、世間の尊敬も勝ち得ている紳士である。子爵家の息子といえど、部屋住みの次男坊に過ぎないライアンが、対等の立場に立てる相手ではない。
 ウィルの視線に冷たさが増すのは、仕方のないことだった。不遜な態度を叱咤されなかっただけでも、ライアンは幸運だと思わなければならなかった。
 だが、それに気づくような男ではない。

「彼女への想いを切々と訴えていたところだったのだ。君の言い草では、まるで嫌がる彼女に僕が無理強いをしたかのようだが、全くの言いがかりだ。彼女の兄を気取っているつもりだろうが、余計なお節介も大概にして欲しいものだな」
 ウィルの双眸が、再びすうっと細められる。地雷を次々に踏んでいることに気づかず、ライアンは相手を見下したような、例の調子で続けた。
「彼女だって一人前の淑女なのだから、君がいつまでも世話を焼く必要はないさ。それに、何も言わずにいきなり殴ってくれたがね、ウィロビー。僕のこの顔を見れば、ご婦人方が騒ぐことは間違いないね。醜聞になるのはどちらだろうか?」
 ニヤリと笑ったライアンだったが、次の瞬間、ぐっと息を呑んだ。サラの位置からは見えなかったが、ウィルの口元に、微笑が浮かんだのだった。追い詰められた獲物のような恐怖感が、ライアンの背中をかけ上った。
 眼差しは剣呑であるだけに、口元に浮かぶ微笑は、冷たく、酷薄な気配を、濃厚に漂わせている。ウィルの発する言葉は、淡々としているだけに、余計に恐怖を煽った。

「よくぺらぺらと喋るものだ。お前が今言ったことを、私はいつでもウィルトン子爵に話す用意がある。それを肝に銘じておくんだな」
 ライアンは何か言い返そうとしたものの、口を開いても、言葉が出てこないようだった。舌打ちをすると、ウィルをねめつけて、足早にバルコニーから消えていった。

 ウィルはライアンの背中が窓の向こうへ消えた後も、暫く目で追っていたが、背中ごしに零れ落ちた小さなため息を聞きとがめ、眼差しや表情から不穏な色を消し去って、後ろを振り返った。
 サラは、自分で自分を抱きしめるようにしながら、俯いていた。薄い肩が、小さく震えている。先ほどのため息は、自分でも無意識に零したものだったのか。サラは唇をぎゅっと引き結び、足元に視線を落としたまま、顔を上げようとしなかった。

 その様子は、ウィルに、先ほどの光景を思い起こさせた。ライアンに抱きすくめられ、口づけを交わしているかのようだったサラの姿が、ありありと浮かぶ。あの男の手は、無遠慮にサラの身体を這いまわりつつあった。あそこで止めなければ、サラの純潔も、奪われてしまっていたかもしれない。
 下心たっぷりな男性につけこまれてしまう彼女の無防備さと、目を離してしまった自分自身の迂闊さに、苛立ちを覚え、ウィルは小さく首を横に振った。ショックを受けている娘にこの怒りをぶつけるわけにはいかないと、自分に言い聞かせて、焦りと安堵がないまぜになった衝動をやり過ごす。

 ライアンがサラをダンスへと誘ってからも、ウィルは彼らの様子を、注意深く見守っていたのだ。サラを呼びにきた時の、ライアンの眼差しにはっきりとした欲望を感じ取ったからなのだが、ダンスを見る限りでは、特に変わった様子は見受けられなかった。ワルツはもともと、男女が身体を接近させて踊るものであるし、多少ライアンがサラを近くへと抱き寄せているからといって、彼らがきちんとステップを踏んでいる間は、ウィルが手を出せる状況ではない。

 そこでウィルは、ワルツが半分ほど過ぎたところで、一度ダンスホールを離れ、カードルームにいるアーサー夫妻のもとへと顔を出したのだった。無垢な令嬢を篭絡することに快楽を見出していると一部で噂されているライアン・ケースが、サラに執拗なアプローチを繰り返すのを、なぜ黙って見ているのか。ヒューズ兄妹の中ではもっとも保守的な性分のアーサーに、問い質すためだった。
 だが、アーサーは、ウィルの心配を「お前もサラのことになると過保護だな」と、あっさりと流しただけだった。アーサーはライアンの父であるウィルトン子爵と親交があり、あのきちんとした紳士の子息ならば、まぁ問題ないだろうと、父親への信頼感から、ライアンを見る目も、いつもより甘くなっているようだった。普段のアーサーならば、サラに近づく男性を片っ端から念入りにチェックしているというのに、ライアン自身がアーサーの信頼を得るためにそつなく立ち回っているせいもあってか、サラに熱心にダンスを申し込む程度ならばうるさく言うほどのことではないと、考えているらしい。

 一方ベッキーの方は、「あの方は女性を口説き慣れてようで、ちょっと心配だわ」と眉を曇らせた。サラはロンドンにも社交界にも慣れていないから、良識ある誰かが、少しばかり注意してあげないと、というベッキーの意見には、ウィルも賛成だった。けれどそれも、アーサーが、「男の本性を見抜けないほど、サラだって愚かではないだろう。周囲が過保護すぎても、本人の判断力が鈍ってしまう」と口を挟んだことで、打ち切られてしまった。
 どうやら親友は、目の前のカードの行方が気になって仕方ないらしい。やれやれとため息を堪えるウィルに、ベッキーがこっそりと、「サラをお願い」と囁いてきたので、気を取り直してダンスホールへと戻ったのだった。

 ホールではワルツが終わり、踊りの輪も崩れてひとびとが入り乱れ、すっかり混沌としていた。少しでも足を止めれば話しかけてくる貴族が誰かしらおり、ウィルは当たり障りなくあしらいながら、内心では苛立ちを覚えていた。
 サラの姿がどこにもないのだ。なお悪いことに、ライアンの姿も見えない。
 サラを見かけなかったか、行き会う友人に尋ねながら、ホールを横切ったところで、ウィルの目の端に、飲み物を手にして足早に歩いていく金髪の男性の姿が映った。ライアンだった。バルコニーに近い休憩スペースの方へと遠ざかっていく彼の背中を、ウィルは追いかけた。あの様子では、サラが疲れて休んでいるのかもしれない。そうであるならば、ライアンを追い払い、ウィルがサラを引き取って休ませた後で、ベッキーに預けるのが一番安全だった。

 談笑するひとびとを避けながら目指すところに辿り着いた時には、ライアンを見失った後だった。幾つか置かれたソファには、サラの姿も、ライアンの姿もない。焦燥を覚えたウィルが、ふと思いついてバルコニーへと滑り出た時、男女の声が、微かに聞こえた。広いバルコニーを見回すと、月明かりに照らされた人影が向こうに見えた。そっと近寄ると、サラが抱きすくめられ、ライアンが熱心に何かを囁いていた。しかも、彼の手が、サラの身体を我が物顔で這い回っており、唇までもが奪われているように、ウィルの位置からは見えた。
 激しい衝動が命じるままに、身体が動いていた。

 ウィルがライアンを追い払う間、サラは一言も発しなかった。無理もない、とウィルは眉を寄せた。男性にあのように迫られたり、触れられたのは初めてだろうし、誰かが目の前で殴られたのを見るのも、初めてだろう。兄たちに心配をかけまいと気強く振る舞い、ひとりで母の世話と館の切り盛りをしているサラは、しっかり者と見られがちだが、同時に、無垢で素直で世間ずれしていない娘だ。男の力に易々と抑え込まれた身体は細く、頼りなく見えた。色々とショックを受けただろう彼女を、守り、慰めなくてはという気持ちに駆り立てられ、ウィルは、穏やかに呼びかけた。

「サラ」

 名前を呼ばれて、サラがゆっくりと顔を上げる。真っ青な瞳が呆然としたまま、ウィルの顔を映し出した。幼い頃、泣き虫だったサラが、涙を流しながらウィルを見上げる時も、このような途方に暮れた瞳をしていた。あの頃と比べると、目の前にいるサラは一人前の淑女となっているけれど、まだまだウィルが守ってやらなければならないところは、変わらない。
 慰めてあげたくて、ウィルは思わず、右手をサラの白い頬に差し伸べた。すると彼女はびくりと肩を震わせ、困惑と怯えを混ぜた瞳で、こちらを見上げてくるのだ。自然と、ウィルの唇から言葉が滑り出た。

「もう大丈夫だよ」

 頬をそっと撫でると、サラの瞳が揺れて、絞り出すような声が、赤く色づいた唇から零れ落ちた。
「・・・怖かった」
「うん。もう大丈夫だから」
 背中と腰に手を回して、彼女の身体を胸に引き寄せると、甘い花の匂いがした。幼子をあやすように、冷え切った背中をそっと撫でてやる。随分と薄い背中だった。こんなに華奢だったろうかと、ウィルは腕の中の娘を見下ろしながら、訝った。サラは顔をウィルの胸に埋めるようにして、身じろぎもしない。じっとしながら、感情を昇華させようとしているようだった。

 大人になってからのサラと、こんなに間近で接する機会はなかった。昔のように抱きしめたりすることもなかったし、頬への親しみを込めたキス以外は、互いに触れ合うことはなかった。
 昔抱きしめた幼いサラは、砂糖菓子と日なたの匂いがした。
 腕の中のサラが身じろぎをしたので、力を緩めると、ウィルの胸をそっと押すようにして身体を離していった。空っぽになった腕に、ひんやりとした冷気を感じて、ウィルは唐突に寂しさを覚えた。幼い頃に両親を亡くし、家族の腕に抱きしめられ、抱きしめた記憶の薄い彼にとって、アビーを除けば、サラは唯一、無邪気に腕の中に飛び込んできてくれる存在だった。
 雛鳥が成長し、親鳥のもとを離れていこうとしている。美しく成長した雛鳥が飛び立つ先は、ライアンの腕の中なのだろうか。線が細く頼りないサラの翼など、あの男ならば、容易く手折ってしまうだろう。アーサーがあの調子なら尚のこと、サラ自身に警戒心を持ってもらわなくてはならない。既に先ほど、サラの羽根を散らしかけたのだとしたら、あの男は迷わずに次の一手で既成事実を完成させようとするだろう。

 サラにどのような忠告をすべきか、手を誤ることがあってはならない。ウィルは慎重に、平静さを取り戻したように目の前に佇むサラへと語りかけた。
「サラ、これは君にとって辛い質問かもしれないが、大切なことだから、答えて欲しいんだ」
 不思議そうに、真っ青の瞳が見返してくる。
「ライアン・ケースに、無体なことをされたりはしなかったか?」

 細い喉がハッと息を吸い込み、サファイアの瞳が眇められた。そこに宿るのは、衝撃と怒りの色だろうか。感情を読み取ることに気を取られ、ウィルが口にした台詞は、後から思えば我ながら非常に愚かなものだった。
「例えば君の名誉が傷つくような――純潔を、疑われるようなことを」
 サファイアの双眸に、真っ青な炎が勢いよく燃え上がった。純粋な怒りだと気づいた時には、真っ向から睨みつけられていた。
「酷いことを言うのね、ウィリアム・ナイトレイ」

 低く吐き出されるサラの声に、ウィルは、手を誤ったことを知った。
「わたくしが、純潔を奪われたと言いたいの?それも、こんなところで」
 サラの声が震え、頬がカッと熱くなる。サラの全身を支配しているのは、目の前の幼馴染への憤りと、屈辱感だった。あのように他の男に抱きしめられているところをウィルに目撃されただけでも恥ずかしいのに、純潔を疑われるなんて、耐え難かった。よりによって、幼い頃から憧れてきたこの人に、疑われるとは。わたくしはふしだらではないわと、声を大にして叫びたかった。
「サラ、気を悪くしたならすまない。君の名誉を守るために、事実の確認をしたかっただけだ。こんなところに男性とふたりきりでいるだけで、淑女のマナーとしては違反になるんだよ?それぐらいはわかっているだろう?」
 いつもと変わらぬ穏やかな声で、宥めるように言い聞かせる台詞が、サラの激情をいっそう煽った。レディたるもの、付き添いもなしに、このような人目のないところで紳士とふたりきりになってはならない。それくらいはウィルに言われるまでもなく、基本的なマナーとしてサラでも知っている。そんなことよりも、人気のないバルコニーにふたりきりという状態で、ウィルがそれを口にすることが、サラを打ちのめした。何を意味しているのかは明白だった。とても哀しく、やるせない事実だった。

 やはり自分は、彼にとって妹でしかないのだ。社交界のひとびともそう認識しているから、ウィルとサラがふたりきりでいても、名誉が傷つくことにはならないのだ。こうやって心配してくれているのも、妹だから。知ってはいても、彼の何気ない言動から改めて思い知らされると、じくじくと胸が痛んだ。
 いっそ、思い切れれば楽なのに。捨て鉢な衝動が、サラの口を開かせた。

「あなただって、今、わたくしとふたりでいるわ」
「私といても心配はないよ、サラ。家族同然なのは、誰もが知っているからね」
 安心させるような微笑と共に紡がれた言葉に、サラの視界がじわりと滲んだ。ウィルには他意はない。サラのことをこころから案じてくれているだけだ。それでも善意が、誰かのこころを傷つけ、想いを踏みにじることもあるのだ。
 ツンと鼻にこみ上げてきたものを振り払うように、サラは、毅然と頭を上げた。惨めでも、それをウィルに見られたくはないという意地と、どろどろと渦巻く混沌とした感情が、彼女の背中を真っ直ぐに支えていた。

「ライアン卿とは、何もなかったわ」
「抱きしめられていただろう?」
「純潔を疑われるようなことは、何もなかったと言ってるの」
 いつものサラらしくない、やや強い口調できっぱりと言い切ると、ウィルが軽く嘆息するのが聞こえてきて、それがサラの神経を尚も苛立たせた。このひとは、サラがいつまで経っても乳臭い子供だと思っているのではないだろうか。両親の後ろ盾がなくても、祖父母も兄たちもいるのだから、ウィルがいつまでも兄役を務める必要はないというのに。ちっともサラが大人になったと認めてくれない相手に、憤りがこみ上げてきて、サラは心にもないことを呟いた。

「ライアン卿は、わたくしのことを真剣に想っていて下さるんですって。わたくしもきちんと向き合わなくてはいけないわよね」
 ウィルの眉間に皺が寄る。
「サラ、彼はやめるんだ」
 一歩踏み出し、サラの両肩に手を置いて、ウィルは厳しい口調で言った。なぜそこまで干渉されなくてはならないの、という台詞をどうにか喉の奥で押し留めたサラの眉間にも、皺が寄る。それを気にも留めず、ウィルはもう一度、幼子に言い聞かせるように、語りかけた。
「彼は君に相応しくない。もっと冷静に注意深く振る舞わなくてはいけないよ」
「なぜあなたがそれを言うの。あなたはわたくしの兄でも何でもないのよ」
 サラは、ツンと肩をそびやかして生意気に言い返したが、ウィルは、駄々をこねる子供を相手にしているかのように、辛抱強く言葉を重ねた。
「サラ、私は君のことが心配なんだ」
「いつまでも子供扱いしないで!」

 その言葉は、身体の底からこみ上げてきて、思いがけず勢いよく飛び出した。シンと静まり返ったバルコニーの空気を、ぎざぎざに切り裂くように響いてから消えていったものの、真正面からウィルを鞭打つような、鋭く激しい言葉の飛礫に、穏やかだったウィルの表情も、真剣なものへと引き締まる。
 幼い頃はともかく、両親の事故の後、サラがこのように感情を露わにしたところを、ウィルは見たことがなかった。彼女の兄たちも同様のはずだ。いつも慎重に自制心を働かせて、穏やかに微笑み、てきぱきと家事をこなす慎ましやかな娘というのが、ここ数年の彼女への、周囲の評価だった。涙を流すところも、怒るところも見たことがない。多くを身の裡に呑み込み、周囲には感情を晒さない、そんな娘だった。その彼女が、激しく波立った感情を、露わにしている。たった今彼女の中で何が起きているのか、ウィルは量りかねていた。
 これ以上余計な刺激を与えないよう、ウィルは努めて穏やかに、彼女の名を呼んだ。
「サラ」

 彼をひとりの異性として意識し始めてから、名前を呼ばれるたび、胸が喜びに震えるのを止められなかった。彼の声に、名前を呼ばれるのが好きだった。しかし今、サラの胸にこみ上げてくるのは、泣き出したいほどの惨めさだった。声に涙が滲むのを必死に堪えて、サラは、自分自身にも言い聞かせるように言った。
「わたくしはもう、子供ではないのよ」
「ああ、君はもう立派なレディだよ」
「嘘。そう思ってなんていないくせに」
 濡れた真っ青な瞳が、精一杯の抗議をたたえて、ウィルを見つめてくる。困ったように眉を寄せて、潤んで見つめてくる一対のサファイアは、ウィルの呼吸を束の間奪った。これまでサラに感じたことのない、女性の色香を、ウィルははっきりと感じ取っていた。無垢で世間ずれしていないだけ余計に、世慣れた淑女の放つものよりも、計算のない純粋な色香は、処世術に長けたウィルの平常心をも、かき乱した。
 そんな風に見つめられたら、大抵の男性は参ってしまうだろう。優しく抱きしめ、薄い肩をさすってやり、頬をそっと撫でずにはいられない。何の心配もいらないよと言い聞かせ、鼻の周りに散っている可愛らしいそばかすに、キスを落としたくなるだろう。露わになった首筋はほっそりとして白く、顔を埋めて悪戯したら、どんな反応を示すだろうか。

 目の前にいるのは、確かに『泣き虫サラ』のはずなのに、一人前の女性の魅力をたたえて、ウィルをもその虜にしようとしている。いつの間に、こんな風に女性らしい魅力を振りまくようになったのだろうかと訝りながら、ウィルは持ち前の強い自制心で、雑念を振り払い、直前にかわされた会話を思い出した。
 ライアンに無体を働かれそうになったせいで、サラの神経は高ぶっているに違いない。あまり刺激せずに、気持ちを落ち着かせるべく、ブランデーでも少し含ませるのがいいだろう。こんな状態の彼女を他の男性の目に晒すのは、非常に危険だった。早くベッキーに引き渡さなければならない。そう判断して、ウィルはいつもと同じ、人好きのする微笑を口元に浮かべた。

「素敵なレディになったと思っているよ」
 サラの眉間に刻まれた皺が、深くなった。これまで口にしたことのないような、辛辣な言葉が、不思議なほどするすると唇から零れ落ちる。
「こころにもないことを言わないで。あなたが気づかなくても、他の人はわたくしを一人前の女性として見てくれる。ライアン卿がわたくしに求婚したとしても、あなたには何も言う権利はないのよ」
「サラ、私は――」
「わたくしだって、解っているのよ」
 サラは、瞬きをして視界を滲ませるものを振り払うと、諦めの混じった微笑を浮かべた。自嘲気味のそれは、彼女には相応しくないものだった。

「ヒューズ家の娘ですもの、いずれは誰か身分ある殿方のところに嫁がなくてはならないことは。アーサーだって、自分の力になってくれる男性がわたくしの夫になることを望んでいるわ。名門の娘の義務として、きっと、今シーズンのうちには、どなたかと婚約することになるでしょう」
 独身のまま3年目のシーズンを迎えれば、世間からは『嫁ぎ遅れ』という目で見られてしまう。それは、ヒューズ家の名に賭けて、断固として阻止せねばならない恥ずべき事態なのだ。
 サラの兄たちは幸運な例外であったが、社交界に身を置く貴族は、義務として婚姻を結ぶのが通例だ。そこには愛情や恋情といったものがないのは普通で、一族の血を途絶えさせないために、夫婦となる。跡継ぎを作るという義務を果たしてしまえば、夫は夫で、妻は妻で、それぞれ秘かに愛人を作り、公の催しがある時だけ、夫婦らしく振る舞うのだ。
 両親が恋愛で結ばれただけに、サラには理解し難いものがあったが、愛情は夫婦関係の前提とはならないのだ。もちろん、互いへの尊敬と信頼は必要だが、そこに恋愛が混じる要素はない。
 ウィルが以前口にした『割り切った結婚』そのものだ。

「――だからライアンでもいいというのか?」
 暫しの間のあと、問いかけてくるウィルの声は、酷く優しく、いたわりに満ちていて、サラは誘われるように、本音を曝け出していた。激しい感情をぶつけたことで、いつも慎重に本音を抑制していた箍が、外れてしまったようだった。
「あなたもいずれ、そうやって義務を果たすのでしょう?兄たちのように恋を成就できたらと憧れるけれど、稀有なケースよ。わたくしたちには、恋だの愛だのに現を抜かすことは許されていないわ。想いを寄せる人がいても、実る見込がないのなら、誰の妻になっても同じよ」
「サラ、君は――」

 ウィルの双眸が驚きに見開かれるのを見て、サラは、無防備に本心を垣間見せてしまったことを悔やんだ。『想いを寄せる人』が誰であるか、慎重に隠し続けてきたのだから、こんなところで暴露してはならなかった。
「誰か想う人がいるんだね?」
 ウィルの問いかけに、胸がずきりと痛む。サラが一人前に恋をしていることが、それほど意外なのだろうか。あなたですと、口が裂けても言えない。彼は自分がその相手であると露ほども気づいていない。続いた問いかけに、サラの胸はいっそう軋んだ。

「その相手は、君の気持ちに気づいているのか?」
「実る見込みはないと言ったわ」
 声が震えないよう、精一杯の気強さを込めて、サラはきっぱりと言った。敏い人だから、サラが少しでも不審な素振りをすれば、きっと事実を見抜いてしまう。足にぐっと力を込めて、サラはぴんと背筋を伸ばした。
「わたくしが成すべきことは、恋愛ではないの。義務を果たすことが大切なのよ」
「アーサーたちには、君を不幸にするつもりはないんだよ?」
 唇を噛みしめて佇むサラに、ウィルは静かに語りかけた。ぴんと張り詰めたサラの神経の隅々に滲みこむような、思いやりが嬉しくて、涙腺が緩みそうになる。その一方で、彼が向けてくれる純粋ないたわりは、惜しげもなく注がれるものの、あくまでも家族的な親愛に基づいたものであることが、酷く哀しかった。

「君の家族は、君の幸せを願っているんだ」
「知ってるわ」

 顔を背けたくなるのを堪えて、サラは素っ気無く、囁くように返した。サラをくるみこむようなウィルの親愛に、恋愛感情が混じっていないからといって、不満を覚える自分が嫌だった。これはわたくしの我侭だ、とサラは思った。彼が同じものを返してくれないからと、だだをこねて拗ねている子供と同じだ。これでは彼が、一人前の女性として見てくれないのも無理はないのかもしれない。
 ウィルの茶色の瞳が、いっそう柔らかく、親愛を浮かべて、自己嫌悪に震える娘を包み込む。

「私だって、君の幸せを願っている」

 声にならない言葉が、サラの喉を締めつけた。必死に瞬きをしても抑えきれない温かなものが、睫毛を越えて頬をひと筋伝った。サラは瞼を伏せ、愛しい人の姿を、視界から消した。

「わたくしも、その方の幸せを願っているわ」
 小さな声で呟くように言ってから、瞼を開けて、滲む視界にウィルの姿を映した。彼が傾けてくれる誠実な想いに、正面から向き合わなくては、彼の妹分でいる価値すら失ってしまうように思えた。彼にも、嘘偽りのない願いを届けたかった。

「あなたの幸せも、こころから願っているのよ」

 囁きは、夜の静寂を縫って、ウィルの耳へと確かに届いた。ウィルの胸を締めつけるような、切なさと、愛おしさに満ちた願いだった。
 ウィルの右手が伸びて、白い頬を伝う涙をそっと拭い取った。それから左手と共に、薄い肩をそっと包み込む。ウィルの掌にすっぽりと収まる、華奢な肩は、冷気に長くあたったせいで、酷く冷えていた。

 潤んだサファイアの瞳を、ウィルは吸い込まれるように見つめながら、知らず、手を腰に回して、華奢な肢体を胸元に引き寄せていた。長いこと夜の冷気に晒されて、彼女はすっかりと冷え切っていた。温もりを失って震えている酷く壊れやすい存在を、守ってやらなくてはならないという衝動が、ウィルを突き動かしていた。どんな人物を相手にしても、決して自制心を失わない彼が、この時ばかりは、本能の命じるままに行動していた。
 深い青の双眸は、息をするのも忘れるほどに、ウィルを捉えて離さない。見慣れた瞳であるはずなのに、こんなにも惑うのは、濡れて、月明かりに艶やかに煌き、一心にこちらを見上げてくるからだろうか。まるでこの世で頼れるものは、ただひとり、ウィルしかいないのだとでもいうように、彼女は無防備に、信じきって、己を預けてくる。ウィルにならば全てを差し出しても構わないのだとでもいうように、自身を差し出してきている。

 まるで熱に浮かされたか、魔法にかかったかのようだった。ふたりの間に、目には見えない惹き合う力が作用していた。
 ウィルの手が頤にかかると、応えるように、赤い唇が薄っすらと開いた。ウィルは瞳を眇め、そこに吸い寄せられるように、ゆっくりと顔を近づけていく。腕の中の娘は、全てを彼に委ね、瞼を伏せた。己の姿が映った真っ青な鏡が閉じられても、ふたりの間の惹き合う力は弱まることがなく、ウィルはごく自然に、唇に己のそれを重ねようとした。唇と唇が触れ合う、直前のことだった。

 ガタンと音がして、サラの肩がびくりと跳ねた。途端にふたりを覆っていた魔法が霧散し、サラはさっと身体を離すと、両手を握り締め、唇を噛んで俯いた。彼女の様子も気になるものの、ウィルは素早く、彼女の背後に目を向けた。誰に目撃されたのか、頭の中では様々な計算を働かせながらも、ウィルは己の失態に舌打ちしたい気分だった。まさかこのような場所で、サラにキスをしようとするとは。迂闊にもほどがある。よりにもよって自分が、彼女の名誉を損なうような行為に及ぶとは。
 誰が目撃したのか、相手によって、対策を変えなくてはならない。警戒しながら目を凝らす彼の視界に、ひょろりと長い人影が映った。室内からバルコニーへと続く扉を開けて、こちらへと向かってくる人物の顔は、室内の明かりを背にして影となっているが、すぐに正体が知れた。とても楽しげな、嘲笑うような声が、この場の沈黙を破ったのだ。

「これはこれは、ウィロビー伯爵ともあろう方が、レディの名誉を傷つけようとするとは。社交界の方々が知ったら、びっくりするでしょうね」
 慇懃な物言いには、明らかな棘がある。背中を向けてはいても、サラも誰かすぐにわかったようで、息を呑み、握り締めた両手を胸に抱えるようにした。彼女を庇うように隣に立ち、ウィルは真っ向から相手を睨みつけた。
「何が言いたい?」
 タイミングが良すぎる。ずっと様子を窺っていたのだろうか。

「どういう風に責任を取るのかと聞いているんですよ」
 にやりと笑いながら、ライアン・ケースは、舌なめずりをするような視線をサラに向けた。この男がサラをそんな風に眺めるのが腹立たしくて、ウィルは、サラを庇うように左手を横に突き出し、挑むように言った。
「責任だって?」
 そこへ、第三の声が割って入った。
「興味深い話だな。是非私にも聞かせてもらおう」
 信じられないといった風に、サラが背後へと向き直る。思いも寄らない人物が、ライアンの背後から、こちらへゆっくりと近づいていた。こんなところへ好き好んで足を運ぶような人物ではないだけに、ウィルの瞳も驚愕に見開かれた。

 唇を引き結んで、厳しい表情をした長身の青年――アーサー・ヒューズが、ライアンと肩を並べて立ち、鋭い眼差しをウィルとサラに向けてきた。彼の双眸には、紛れもない怒りが燃え上がっていた。

2010/09/03up


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