こころの鍵を探して

第一章 幻惑の夜[1]

 夜会は、苦手だわ。

 何度思ったかしれないその言葉を、サラは再度胸の裡で呟いて、零れそうになる重いため息を隠すため、扇子をぱらりと開いて口元に当てた。ため息を堪えて息を吸い込もうにも、熱気で淀んだ空気はねっとりと肌にまとわりついて、気持ちが悪い。少しでも新鮮な空気を得ようと、繊細な細工が施された扇子を、小さく扇いでみる。
 物憂げにゆっくりと扇子で風を送り、俯いて伏し目がちにソファに腰を下ろしていれば、いかにも『疲れてしまったので休憩しているご令嬢』らしく見えることを、サラは経験からよく知っていた。

 実際、連日続く茶会や夜会に顔出ししているせいで疲労が溜まっているため、延々と続くダンスから逃れられるなら、こうしてしおらしく休んでいることは、全く苦ではなかった。
 きつく締めたコルセットは苦しいし、きっちりと結い上げてピンを沢山刺した頭が、ずきずきと痛む。早く帰宅して、ベッドに倒れこみたかった。途中で逃げ出したいくらいだが、そんなことをすれば、さすがにアーサーから大目玉を食らう。いくら繊細な生地で仕立てたドレスを纏い、髪を優雅に結っていても、こころは晴れなかった。

 二度目の社交シーズンともなれば、だいぶ勝手もわかってくるものだ。去年は周囲に言われるがまま、紳士に誘われるがまま、無我夢中で目の前の催しをこなしたが、今年は手を抜けるところは抜いても構わないと思っている。サラにとってのシーズンデビューは、貴族の家に生まれた娘の義務であり、母の希望に応えるためのものであったから、そこで早々に適切な結婚相手を見つけることまでは、目的に含まれていなかった。そんなことを口にしようものなら、長兄のアーサーの説教が長々と続くことは目に見えているので、こころの中に留めてはいるが、きっと義姉のベッキーあたりには勘づかれているだろう。

 愛情のない結婚はしたくない。

 それが、サラの中では絶対に譲れないこだわりだった。特に、サラ自身ではなく、バリー伯爵家やレイモンド侯爵家の財産を目当てに寄って来るような男性の手を取るようなことはしたくなかった。

 とはいえ、実際には『レイモンド侯爵の孫娘で、バリー伯爵令嬢のレディ・サラ』という肩書きでしか彼女を見てくれない男性は、非常に多い。身内を除けば、基本的にはそういう男性ばかりと考えていい。サラがもたらすであろう持参金は、彼女の背後にある両家の財政状況を考えると、きっと莫大な額になる。何より、父を亡くしている娘が肩身の狭い思いをしないで済むようにと、祖父や兄が配慮しないはずがない。社交界の未婚男性や、男やもめとなっている男性は、誰もがそう考えているらしいとサラが悟るまで、あまり時間はかからなかった。きっと今年も同じことを考える男性は多いはず、という嬉しくない予想に違わず、放っておけば、サラの手を取ろうとする男性の列が途切れることはないのだ。
 両親や家族を愛してはいるものの、こういう時だけは、『レイモンド侯爵』や『バリー伯爵』という英国屈指の名門の称号を、重荷に感じてしまう。独り身の男性にとって、これらの称号は、きらきら光る宝石のように見えるようだから。その宝石を身に着けているのがサラであっても、他の女性であっても、きっと彼らは構わないはずだ。

 と、そこまで思って、サラは再びこみ上げてくるため息を堪えた。宝石に飛びつかない独り身の男性が、ロンドン社交界にひとりだけいることを思い出したのだ。彼は他の男性と違って、称号に魅力を感じないばかりか、サラのことも妹のようにしか見てくれない。
 その彼は、先ほどベッキーと踊っていた。楽しそうに親友の妻と踊る姿を見ているうちに息苦しくなり、パートナーの男性に気分が悪いと言い訳をして、サラは休憩所に逃げ込んだのだ。仕事の関係で到着が少々遅れた彼とは、今宵まだ話ができていない。彼の姿に気づいた時には既に、サラのダンスカードはハイエナのような独り身の男性でいっぱいになっており、彼とは踊れそうになかった。ウィルトン子爵家のライアンと二度も踊らなくてはならないというのに、一番踊りたい相手とは踊れないなんて、うんざりだ。

 ダンスホールから少々距離を置いた窓側に点在する椅子やソファは、夜会で疲れた足を休めたい人のために用意されたもので、その脇に据えられた植物が、衝立代わりに視線や喧騒を遮ってくれる。
 サラの他にも年配のご婦人方やご令嬢が足を休めており、話し声がひっきりなしに聞こえてくる。聞き耳を立てるでもなく、ぼんやりと聞き流していたサラだったが、不意に自分の名前が聞こえてきて、扇子を動かす手を止めた。植物を挟み、ちょうどサラと背中合わせに置かれているソファに座っている年配のご婦人たちが、サラの話題に花を咲かせている。不自然にならないよう慎重に背後の様子を窺うと、見知った顔触れが視界に飛び込んできた。

「レディ・サラもお気の毒なことね。お母様がついていらっしゃらないから、社交界でどう振る舞えばいいのか、きっとわかってらっしゃらないんだわ」
 同情をたっぷりと込めて熱弁を振るうのは、ニューマン男爵夫人である。シャンデリアの光を受けて、化粧が浮いた汗だくの顔がてらてらと光っている。サラの眉間に、知らず、僅かに皺が寄った。面倒な相手である。確か彼女の娘も、昨年デビューしたばかりのはずだ。ニューマン夫人と友人たちは、社交界でも指折りの、うるさ型のご婦人方で、いずれも昨年はサラの次兄を娘婿にと奔走していた方々だ。
「だって、おかしいでしょう?あれほどの名家のご令嬢で、お兄様たちがしっかりしてらっしゃるのに、二年目のシーズンに顔を出すなんて。普通は、もうどこかにお嫁にいっているところでしょう」
「貧乏貴族とは違って、顔かたちがどうであれ、引く手あまたですものね」
 もっともらしく頷いているのは、ストレイ卿夫人である。ニューマン夫人だけでなく、彼女にも年頃の娘が幾人かいるはずだ。更に、ゴードン子爵夫人が、さも気の毒そうに口を挟んだ。
「本当に。持参金ばかり望まれて、ご本人のことはちっとも望まれていないというのも、惨めですわね。お金があり過ぎるというのも困ったものですわ。ご自身に魅力があるから紳士方が引きもきらないなどと、レディ・サラが勘違いなさらなければいいのだけど」
「あらあなた、ちょっとそれは言い過ぎですわよ」
 誰かの声が笑いを含んでたしなめる。
「でも、事実でしょう?レディ・サラを美人だと言う人は、誰もいませんわ」
「お兄様方やご両親は美形なのに、お気の毒ね。どなたにも似なかったなんてね」
「そうですわ。お母様のレディ・アメリアなんて、社交界の名花と謳われた方ですのに。あの事故さえなければ、今でも光り輝いてらっしゃったでしょうにね」
「全くですわ。あの方がいらっしゃれば、レディ・サラが地味であっても、上手く婿がねを見つけられたでしょうに」
「レディ・レベッカやレディ・ソフィアが美人だから、余計に惨めですわよね」

 これだから、底意地の悪い社交界の女性陣は苦手だ。

 扇子を持つ手に知らず、力が入りそうになっていることに気づいて、サラは静かにため息をついた。植物が視界を遮っているといっても、彼女たちは、サラがここにいることをわかって、わざと聞こえよがしに喋っているのだ。年頃の娘を持つ親としては、有力なライバルをひとりでも多く蹴落としたいのだろう。正面きってサラに嫌がらせをすれば、たちまちアーサーや祖父のレイモンド侯爵の耳に入るから、こうやって陰でこそこそと毒のような言葉を吐いて、サラを弱らせようとしているのだ。

 本当に暇な方々ね。

 サラは、背後から途切れることなく聞こえてくる悪意に溢れた言葉の数々を追い払うように、ゆっくりと扇子を動かし続けた。集まりに顔を出せばこうなることは、予め予想ができていた。こうした嫌がらせは、今日が初めてではない。昨年のデビュー当時は、もっと酷かった。我が娘のライバルとして常に敵視されたシーズンだった。昨年デビューを果たしたご令嬢の中に、サラと張り合えるほどの家の出身者がいなかったから、余計に風当たりはきつかった。家柄では絶対にサラに敵わないからと、他の要素でサラを打ち負かせないかと、あら探しを始める始末だ。
 サラに『上等の』花婿候補を奪われてはと焦ったのだろうが、結果的には、昨シーズン随一の花婿候補と言われたブラッドが、未亡人だったソフィアと結ばれたことで、社交界の注目はそちらへと向けられた。実家の家柄こそ高くはないが、伯爵夫人の称号を持ち、貞淑な美しい貴婦人として、社交界の実力者たちから好意的に受け容れられた彼女に対する風当たりは、微風があるかないかというところだった。レディ・アメリアの穴を埋める花形として、兄嫁のレディ・レベッカともども、敬意をもって遇されている。

 そして今シーズン、サラの立場は、『名門のご令嬢でありながら、売れ残った哀れな娘』『美しい兄嫁たちに隠れて目立たない娘』というところのようだ。家名が優れていても引き取り手がなかった、気の毒な令嬢の見本だと思われているらしい。彼女たちは、サラをそうして哀れむことで、自分たちの自尊心を満足させようとしている。ベッキーや兄たちの耳に入らないように、サラ本人にだけ聞こえるように、手の込んだ嫌がらせをしてくるのだ。

 わたくしが美人でないことくらい、とっくに知っているわ。
 サラは胸のうちで、そうひとりごちた。自分との付き合いが一番長いのは自分自身なのだから、長所も短所もある程度把握している。「気立ての良い娘」と褒められたことはあっても、「美人」だと言われたことはないし、毎日鏡を見ていれば、美醜の区別くらいはさすがに自分でもわかるものだ。

 先日の夜会でも、ご婦人方が陰で噂をしていたのを知っている。「ひょろりとして痩せた娘」だの、「女らしくない身体つき」だの、散々に容姿を評されていた。顔の造作は、美しくはなくても見苦しくない程度には見られると思っているし(地味だということもわかっている)、歪んだ口元には威厳はなくても、愛嬌はあると思っている。いわゆる『美人』の範疇に入らなくても、生まれもったもので満足するというのが、サラの実際的な考え方だった。ただ、女性にしては高い身長は、自分でも好きではなかった。
 父も兄たちも長身のため、サラの身長が高いのも、仕方ないことではあるのだろう。家族の中にいれば、さほど気にならない自分の身長も、女性の中に入ると目立ってしまうのだ。目線の位置が他のご令嬢やご婦人方と違って、まるで木の枝に止まっている梟のような気持ちになる。せめて同じ目線ならいいのにと、他の女性を見ると羨ましくなることがある。小柄な方が、男性だって守ってあげたくなるだろう。

 おまけに、肉付きの薄い身体つきも、サラにとっては悩みだった。ベッキーやソフィアは、出るところは出て、しまるところはしまっている、女性らしい魅力的な肢体の持ち主である。コルセットできつく締め上げているから、控え目な谷間が胸にできているものの、襟ぐりの大きく開いたドレスを着こなせるくらいの豊かさがあればいいのにと思う。
 地味でやせっぽちのサラでなく、女性的な魅力に溢れていれば、彼だって、もしかしたら関心を持ってくれるかもしれない。妹同然という関心ではなく、ひとりの大人の女性として。

 そこまで考えて、サラはハッと気づき、扇子の下で微苦笑を浮かべた。ないものねだりをしたって始まらないとわかっているのに、まだ時折、こんなとりとめもないことを考えてしまうのだ。
 しっかりしなさい、サラ。わたくしはわたくしにしかなれないのよ。

 聞き流すようにはしていても、連日注がれる悪意の囁きに、神経が疲弊してきているのかもしれない。だからきっと、こんな益体もないことを考えるのだ。自分を励まし、俯きそうになる視線を上げようとしたところで、ひときわ甲高い声が、自分を嘲笑うのが聞こえてきた。
「本当にお気の毒な方よね。どれだけ着飾っても、どなたにも望まれないなんて。きっと、殿方にとっては、彼女の家柄が重圧になっているのではありません?」
 疲れて無防備になっていたこころに、敵意ある棘は、簡単に深く突き刺さる。
「わたくしがレディ・サラだったら、恥ずかしくて夜会になんて顔を出せませんわ。あの煌びやかな伯爵家の方々の中に厚かましく居座ることなんて、できませんわよね」
「ええ、本当に」
 耳障りな笑い声が、べっとりと鼓膜にまとわりつくように反響している。言葉の中に含まれた毒は、じわじわと全身を侵食していく。いつしか、扇子を扇ぐ手は止まっていた。

 疲れた。

 唐突に、強くそう感じた。鈍い頭痛を堪えながら窮屈な格好で、曖昧な笑みを浮かべ、黙って座っているだけの時間を、毎晩繰り返して、どれだけの意味があるのか。家柄目当ての男性をあしらうので精一杯なのに、悪意を延々と浴びせられ、耐えるだけの毎日だ。サラが何かしでかして、責任を取らねばならないというのなら、厳しい批判も受け容れるが、人を貶めたいという気持ちに根ざした醜い言葉をサラに聞かせて、一体何をしたいのだろうか。
 ロンドン社交界の人々に、本当のこころなどありはしない。一年目の社交シーズンを終えた時、サラはそう結論づけた。表向きは笑顔の仮面を貼り付けているくせに、その実、内心では何を考えているか分からない。無責任な噂や中傷を煽って、互いの足を引っ張り合おうとする集団の中にいては、毒される一方だ。

 早くレイノルズ館へ帰りたい。
 切実な願いがこみ上げてきて、視界がじわりと滲みかけた。

 こじんまりとした館で、心根の善良な人々に囲まれて過ごす穏やかな時間が、恋しかった。ウェストサセックスの豊かな緑に包まれたあの場所には、誰かを貶めようとする人間はいない。家事の監督に忙しくて、縁談に頭を悩ませる時間もない。美人でなかろうと痩せっぽちだろうと、サラをありのままに受け容れてくれる。
 アーサーからの厳命と、母の希望で、クリスマスを終えてすぐ、サラはハンプシャーのゴールド・マナーへと発った。その後新年を祖父母と過ごすために、慌しくロンドンへと向かって、暫くレイモンド侯爵の城館に滞在した。それからバリー伯爵家のタウンハウスに移り、ベッキーの協力でシーズンへの準備を行い、シーズン開始となってからは、目まぐるしい毎日を過ごしている。全ての行程に同行してくれる忠実なベッシーとジェイがいなければ、息が詰まってしまうところだ。

 礼儀作法やダンスは一通り身につけているが、自分はもともと社交界向きの人間ではないと、サラは自覚している。ベッキーのように、ハウスパーティーを取り仕切ることに満足を覚えるような性分ならば、あるいはソフィアのように、ダンスが大好きで仕方がないという性分ならば、こうした夜会も楽しめるのだろうが、サラにとっては、華やかな上辺だけの人間関係など、無意味なだけだ。兄たちの体面もあるから、退屈していることなどおくびにも出さないよう注意を払っているが、叶うならば、夜は自室でゆっくりと過ごしたかった。
 わざわざ中傷を受けるために出席しているようなものだ。兄夫婦の耳に入れれば何か行動を起こしてはくれるだろうが、こんな嫌がらせのために多忙な彼らの手を煩わせるのも申し訳ない。自分が上手く聞き流せればいいだけだと我慢してきたが、そろそろ限界に近づいているようだった。

 ぼんやりと縁が滲みかけた視界の中、ドレスの裾にほとんど隠れた靴の先端だけが、ちょこんと顔を出している。足が鉛のように重く感じる。
 このまま黙って貸し馬車を拾って帰ったりしたら、きっとアーサーが激怒するわね。
 アーサーは、サラが素晴らしい伴侶と出逢えるようにと願ってくれている。こうした催しにはきちんと出て、出逢いのきっかけを失わないようにしなさいと、彼なりに配慮しているのだ。無責任な帰り方をすれば、怒るだろうし、心配もするだろう。
 俯いたままの視界に、男性用の靴のつま先が映った。ひと目見ただけで高級品とわかるそれは、非の打ち所もなくぴかぴかに磨かれている。

「レディ・サラ」
 幼い頃から聞き慣れたはずなのに、その声を耳にするだけで、サラの肩は喜びに小さく震えた。心地よいバリトンの声は、ささくれ立ったサラのこころを、いつでもふんわりと包み込んでくれる。

 ゆっくりと顔を上げると、労わるようにこちらを見下ろしている茶色の瞳とぶつかった。口元には、人好きのするいつもの小さな笑みが浮かんでいる。つられてサラも微笑を返したが、上手くいかなかったらしい。彼の眉が微かに顰められるのを見て、サラは、しっかりしなさいと自分に言い聞かせた。兄たちばかりでなく、このひとに心配をかけるのも嫌だった。
「ご機嫌いかがかな?」
「ウィロビー伯爵」

 聞こえよがしに悪意を撒き散らしていた声が、ぴたりと止んでいる。この人が現れたから無理もない、とサラは、目の前の相手に気づかれないよう、扇子の下で苦笑した。誰もが認める社交界きっての花婿候補の近くで、彼の心証を悪くするような、品位のない会話を控えるだけの分別はあるようだ。きっとご婦人方が、息を潜めてこちらの会話に聞き耳を立てているに違いない。

 ウィロビー伯爵ウィリアム・ナイトレイ。

 サラにとっては兄の親友で、幼い頃からの兄代わりという存在だが、今の彼は社交界の人気者で、若年ながら誰からも一目置かれている。若くして爵位を継いだ彼は、他人を不愉快にさせないコツを心得ており、誠実な人柄で通っている。長く社交界を見てきたベッキーも、彼の悪口を言う人物に遭遇したことはないと言っている。陰湿な陰口が蔓延している世界において、これは極めて稀なことだ。
 外見も派手さはないが、清潔感のある好青年として、すこぶる評判はよい。サラの兄たちほどの長身ではないものの、すらりと痩せ型で、栗色の髪に茶色の瞳を持っており、顔立ちは端正で、貴族的だ。真顔でいれば気品を感じさせる整った顔立ちの中で、茶色の双眸にはユーモアを解する光が常に浮かんでおり、初対面の相手の警戒心も、たちまち溶かしてしまう。薄い唇は、口角が上がった途端に、人懐こい微笑みを刻む。彼がニコリと笑うと、目尻には小さな皺ができて、余計に愛嬌のある笑顔になるのだ。こころを許してもいいと相手に思わせる術を心得、さらりとそれを使いこなしているのが、彼の才能だとサラは思う。

 おまけに爵位を継いでから、彼は領地経営に敏腕を振るっており、優れた投資対効果を挙げているともっぱらの評判で、多くのご婦人から熱い視線を送られている。経営に失敗した貴族が多い中で、ウィルのように、爵位も経済力も評判も全て揃っている青年は、希少な『物件』だった。彼が6年前に婚約者を病で失っていることは、本人が語りたがらずとも、既に周知の事実であり、いまだ独身で婚約者なしの彼は、『狙い目』というわけだ。経済力のある爵位持ちの家の娘で、やはり婚約者のいないサラが、独身男たちにとって『狙い目』であるのと同様に。
 背後のご婦人の何人かも、是非娘の婿にと思っているはずだ。

「可もなく不可もなくといったところよ」
 淡々としたサラの答えに、ウィルは片方の眉を上げてみせた。
「夜会を楽しんでいるかと思ったけど、その様子では違うみたいだね」
「今夜は靴がちょっと合わなかったみたいで、それで休んでいたの」
「それは珍しい。ベッキーのチェックが甘かったのかな?」
 見え透いた言い訳だとわかっているはずなのに、ウィルは驚いた様子で尋ねてくる。居心地の悪さを感じつつも、サラはさらりと言葉を返した。
「そういうこともあるわ」
「なるほど」

 ほんのちょっとした沈黙も、お尻の辺りがむずむずするような心地悪さを煽るようで、サラは手にした扇子を閉じたり開いたり、弄んでやり過ごそうとした。別にサラが休んでいても、やましさを感じる必要などないのに、ウィルは時折こうやって、アーサーが言いそうなことを口にする。サラの保護者でも身内でも何でもないのに、サラが取っている行動は果たして正しいものなのかどうか、ようく考えてごらんとでも言うように、決まり悪い思いをさせるのだ。
 ダンスの相手には、「気分が悪い」と断って休んでいるのに、ウィルに問い質されているような気がするのはなぜだろう。そして、苛立ちと決まり悪さが入り混じった気持ちを覚えるのはなぜだろう。ウィルに兄のような行動を取られると、時折、反発したい衝動がこみ上げてきて、制御するのに一苦労するのだ。
 これ以上追い討ちをかけられたら、きっと反発心がむくむくと膨らんで大変だっただろうが、幸いウィルは、落ち着かない様子のサラを見て、良心への訴えかけは完了したと判断したようだ。全く別の話題を振ってきた。

「今日もダンスカードはぎっしり書かれているの?」
「そうね」
 ため息を堪えて、サラはダンスカードを差し出した。ウィルはパラパラと中を見てから、すぐにサラに返してくれたが、目下サラに猛烈なアプローチをかけているのが誰か、一目で見て取ったらしい。
「まだ暫くは休んでいられるのかい?」
「ええ。カドリールまではね」
 最後のワルツの相手は、きっとサラを休ませてはくれないだろう。何としても踊ると言い出すのが目に見えている。
「では、ウィルトンが探しに来るまで、場所を変えて休もうか」
 何気ないはずのウィルの言葉の裏に、不穏なものを感じて、サラは思わず茶色の双眸を見上げた。いつもと変わらない柔らかで穏やかな口調なのに、なぜだか胸がざわりとするものを感じたのだ。自信に溢れた茶色の眼差しは、全てお見通しだというように、サラを見返した。

「こんなに賑やかな場所では、全然休めないだろう?静かなところの方が、落ち着いて休める」
 サラに向かってというよりは、明らかに彼女の背後に向かって投げられた言葉だった。茶色の双眸には、強い光が灯っている。背中越しの空気が、びくりと硬くなったのが伝わってくる。先ほど感じた不穏な何かというのは、怒りだったのだ。間違いなく、ご婦人方の中傷は、ウィルの耳にも入っていたのだ。
 こてんぱんにこき下ろされたところを聞かれていたことへの恥ずかしさや情けなさがどっと押し寄せてきて、頬に熱が集まるのがわかった。公の場だということを忘れて、思わずいつもの愛称が口をついて出た。

「ウィル」
 囁きと言うよりは喘ぎのような微かな呼びかけを、彼はしっかりと捕捉したようだ。眼差しの強さを和らげて、彼はサラに頷きかけた。
「サラ、場所を移そう」
 彼もまた、『レディ・サラ』とは言わなかった。それがわざと背後の女性たちに聞かせるためだということを察して、サラは大人しく、差し出された手を取った。自分との親しさを強調して、サラの後ろ盾は兄たちだけではないと、牽制してくれたのだとわかっている。それでも、彼の名前を呼ばれるだけで、サラのこころは喜びに震えるのだ。何て単純なこころだろう。思わず微苦笑を浮かべたが、ウィルに見られる前に、急いでそれを引っこめた。

 ウィルという人が、人々が考えている通りの、穏やかで優しいだけの人物ではないと知っているから、こちらの本心を悟られるようなことは避けたかった。ただ『いい人』というだけで、財を成し、社交界でのし上がることはできない。
 ウィルに手を引かれ、バルコニーへ続く窓の前に設けられたソファへ導かれる間、サラは努めて冷静さを保とうと試みた。彼と手袋越しに触れ合っている手が熱いことも、心臓がいつもより速く鼓動を打っていることも、彼には知られたくなかった。これまでずっと隠しおおせてきたから大丈夫だとは思うが、火照った頬だけはどうしようもなかった。ソファへ座らされた時もまだ、頬が熱かった。

「サラ、何か飲み物を取ってこようか?」
「いいえ、いらないわ。ありがとう」
 ソファの前に立つウィルが礼儀正しく尋ねてきたが、サラは素気無く断った。アルコールの助けを借りて、この居たたまれなさを誤魔化すのは嫌だった。唇を引き結んで、平静さを取り戻そうとしているサラに、ウィルはやれやれと嘆息をついた。
「なぜあんなことを言わせておくんだ?」

 核心を突いた問いかけに、サラは身体を強張らせ、表情を硬くした。やはりウィルは聞いていたのだ。恥ずかしい、逃げ出したいという衝動がこみ上げてきて、サラは奥歯をぐっと噛んでやり過ごした。
「あれは、君にわざと聞かせるためのものだろう?」
「――取り合っても無駄なことくらい、あなたにはおわかりでしょう」
 酷く醒めた声が、サラの口をついて出た。ウィルの眉が顰められたが、床を見つめたままのサラは、それに気づかない。
「わたくしが何か反応を示せば、もっと酷くなるわ。ああいう方々は無視しておくのが一番いいのよ」
「君が無視を決め込むから、調子に乗っているんじゃないか?君か、あるいはベッキーあたりが一言言えば、怖気づいて大人しくなるだろうに」
「ベッキーの手を借りるまでもない、些細なことよ」
 頑なに俯くサラへと、ウィルは一歩踏み出した。彼の言葉は、サラのこころの奥深くを揺らした。

「サラ、これでは逃げているだけだ」
「やめて!」
 思いがけず大きな声が零れて、サラははっと顔を上げた。このような大きな声や物言いを、最後にしたのはいつだっただろう。随分昔のことで、悲鳴のような自分の声を耳にしたのは久しぶりだった。周囲には人気がなく、誰かに聞かれた心配はなかった。ますます居たたまれなくて、サラは扇子を硬く握り締めた。視界が、僅かにぼやけるのがわかる。

「サラ」
 ウィルが片膝をつき、跪くようにして、サラの顔を覗き込んでいる。茶色の瞳に、自分の中に渦巻くぐちゃぐちゃの感情を見抜かれたくなくて、サラは視線を逸らし、俯いた。まるで子供のような態度を取ってしまった。ウィルはわたくしを心配してくれただけなのに。どんな我侭娘かと呆れているだろう。
 謝らなくてはと唇を開いたサラより先に、彼の声が、耳に飛び込んできた。
「すまない、サラ。言い過ぎたね」
 彼は悪くない。小さく首を横に振りながら、俯いたままのサラの頭へ、ウィルはそっと右手を伸ばした。が、途中でその手を引っこめて、何事もなかったかのように立ち上がった。

 俯いたままのサラに、別の声がかけられた。
「探しましたよ、レディ・サラ」
 素早く深呼吸をして涙を押し戻すと、サラは顔を上げ、ウィルの横から歩み寄る青年を見上げた。金髪に青い瞳という、絵に描いた王子のような容姿の青年は、ウィルを見て一瞬顔を顰めたものの、すぐに笑顔を浮かべてサラに手を差し出した。
「さあ、ワルツですよ。僕と踊ること、忘れてはいないでしょうね」
「もちろんですわ、ライアン卿」
 無理やり笑顔を浮かべ、サラは彼の手を取った。いつもより硬い笑顔を見て、ウィルは唇にぎゅっと力をこめたものの、ライアンは単純に、踊ることを喜んで微笑んでいると捉えたようだった。

 立ち上がったサラの背中に、これみよがしに手を回して、ライアンはそこで初めて真正面からウィルを見た。
「僕のパートナーについていてくれて、すまなかったね。ここからは僕が彼女についているから、君も踊ってくるといいよ、ウィロビー」
 嘲りを含んだ口調にも、ウィルは眉ひとつ動かさず、無表情に見つめ返しただけだった。いつも笑顔を欠かさない青年の真顔に気圧されたのか、ライアンがうっと怯んだ。ウィルはそのままサラへと視線を移し、サファイアの瞳を見つめながら、いつもと変わらない穏やかな声で言った。
「随分疲れているようだから、あまり無茶はしないように」
「わかっている」
 自分への言葉と受け取ったのか、ライアンがぶっきらぼうに返して、サラをダンスホールへと誘った。背中を向けて歩き始めたものの、ずっと茶色の眼差しが追いかけてきているような気がして、サラは一度だけ振り返ったが、ソファの横には既に人影はなかった。それでもダンスが始まるまで、どこからか、彼の視線が注がれているような気がしてならなかった。

2010/08/09up


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