こころの鍵を探して

 偽りの誓い[1]

 鏡を覗いて、サラはがくりと肩を落とした。
「酷い顔だわ・・・・・・」
 朝の清冽な光の中、鏡に映る自分の顔は、青ざめてげっそりとしている。昨夜よく寝付けなかったせいだ。とりわけ、両の瞼は腫れていて、いっそう惨めに見える。こんな有様のまま、アーサーやウィルの前に出るわけにはいかない。

 サラは気を取り直して、洗面台の蛇口を捻り、冷たい水で顔を洗った。タオルで水気を拭ってから、今度はハンカチを取り出して、それを水で濡らし、絞った。ベッドの上に仰向けに倒れこみ、ハンカチを瞼の上に当てると、ひんやりとした布が心地よい。ほう、と吐いた息が、部屋の中にふんわりと散らばっていく。
 目の裏をちくちくと刺すような痛みを感じて、サラは顔をしかめた。昨夜は思い悩んでいるうちに、少しはうとうととしたようだが、明け方見た夢のせいで目覚めの気分は最悪だ。父の葬儀の前、冷たく暗い部屋の中で、抱きしめてくれたウィルの体温が、あの時のサラが確かに縋れるたったひとつの寄る辺だった。彼の温もりを、離したくないと願った。
 後から思えば、あの夜、そっと寄り添ってくれたウィルの存在が、以後サラの中で重さを増し、兄という存在からかけがえのない愛おしいひとへと変化を遂げたのだ。薄暗がりの中で注がれた彼の優しい眼差しが、空気のようにサラを包みこみ、両親の事故を乗り越えるための一歩を踏み出させたのだ。

 けれどわたくしは、永久にあの優しいひとを失ってしまったのかもしれない。

 サラの唇が、歪んだ笑みを形作る。
 自分に注がれた冷たい視線を思い出すだけで、体が恐怖に震える。唯一の女性を亡くして長いこと苦しみ、やっと平穏な日々を送れるようになったウィルを、義務と責任という重苦しい鎖に繋ぎとめるなど、決して許されない。ましてや、サラ自身に繋ぎとめるなど、あってはならないのだ。

 彼への想いを隠し、兄妹のような関係でいられるだけで十分だと、自分に言い聞かせてきた。共感と思いやりを持って互いに接し、穏やかな信頼関係を維持していければ幸せなはずだった。多くを望まずに、レイノルズ館で母とベッシーとジェイと共に暮らしていければよかったのだ。彼の隣に並んで立つには、自分は相応しくないと考えてきたのだ。
 だが、こころの奥には、醜い欲望が潜んでいたのだと、サラも認めざるを得なかった。ベッキーと楽しげに踊る姿に嫉妬したり、兄のように接してくることに反発したり、これは自分をひとりの女性として見て欲しいという欲求に他ならない。ベッキーやソフィアに接するように、サラのことも、ひとりの貴婦人として――庇護する対象ではなく、恋愛や結婚の対象になる存在として見て欲しかったのだ。

「馬鹿ね」
 自嘲の呟きが、唇から力なく零れ出る。ベッドの上に投げ出していた両手で、顔を覆う。
 結局のところ、多くを望まないといいながら、望んでいたのだ。兄のように振る舞うウィルに感じた苛立ちも、サラを駆り立てた衝動も、サラが自分に課した戒めで雁字搦めになり、息苦しさから生じた反動だったのだ。
 大人の女性になろうと努力してきたのに、これでは幼い頃の我侭なサラと変わりない。自分で制御できなくなった欲求のために、一番縛りつけたくなかったひとに、犠牲を強いるのだ。
 伯爵の義務として妻を迎えることすら、気が進まないと言っていた彼のことだ。自ら望んだのではなく、サラがしでかした不始末の尻拭いをするために結婚をするなど、嫌でたまらないだろう。それなのに、紳士として振る舞おうとしてくれたのだ。あの冷たい眼差しを必死に記憶の隅へ追いやりながら、サラは、ウィルの潔い申し出に感謝しようとした。自分が傷ついている場合ではない。令嬢としての評判に傷がついても、レイノルズ館へ戻って暮らせば、華やかな生活とは隔絶されるのだから支障はない。そうなれば、二度とロンドン社交界に姿を現したりはしない。
 そうなのだ。サラが今日すべきことは、何としてもウィルとの婚約を壊すことである。祖父母や兄たち、母は悲しむだろうが、世間から傷ものと見られるようになったとしても、構わない。世間嫌いのオールドミスとして変わり者扱いされたっていい。ウィルを犠牲者にするよりましだ。

 決意を新たにしてから、サラは、熱を吸って温まった布を裏返しにして、再び瞼を覆った。ウィルに哀れまれることのないよう、見苦しくない装いをして、断固アーサーに対抗するのだ。例えそれで兄に愛想をつかされたても構わない。ウィルと以前のような関係に戻れなくても悲しんだりはしない。
 ひとしきり瞼を冷やしてから、サラは起き上がり、ベッドの縁に座った。視界に入る部屋は、上品な調度と内装で調えられている。グローヴナー・スクウェアのタウンハウス内で現在サラに与えられている部屋は、もとは客用寝室だったのを改装したものだ。サラが生まれたとき、バリー伯爵令嬢はサラひとりきりだったので、このタウンハウスに滞在している間は、別の部屋がサラの部屋だった。子供部屋を卒業した後で入る、伯爵家の長女が代々使ってきたという部屋だ。その部屋は現在、アーサーの長女レイチェルが使っている。

 レイチェルが生まれた時、その部屋を譲りたいとサラから兄夫婦に申し出たのだった。その当時既にサラの生活基盤はレイノルズ館に移っていたため、グローヴナー・スクウェアの屋敷で過ごす時間はかなり減っていたし、母の側で過ごしたいという気持ちが強かった。老いた祖母から懇願されて、渋々ロンドンへ出てくることはあったが、こころは常にウェストサセックスにあった。
 伯爵家の当主はアーサーであったし、妻のベッキーは女主人としての役目を立派に果たし、グローヴナー・スクウェアの屋敷もハンプシャーのゴールド・マナーもきちんと取り仕切っていた。彼らの長女が、伯爵家令嬢の部屋を譲り受けるのに、サラの中では何の問題もなかった。ロンドンに滞在する目的は、父を失って老け込んでしまった祖父母を元気づけるためだったから、寝泊りするのがレイモンド侯爵家の城館であろうと、伯爵家のタウンハウスであろうと、大した違いはなかったのだ。それに祖父母の側にということを考えれば、城館に滞在する方が都合が良かった。

 兄夫婦は、最初はこの申し出に難色を示し、サラが当然受け取るべき権利を剥奪するつもりは毛頭ないと強く主張した。もちろんそれはわかっているし、わたくしだって卑屈になったわけではないわと、サラは穏やかに微笑むだけで、己の考えを曲げることはなかった。結果、アーサーは渋々妹の申し出を受け入れ、ただしこれだけは絶対に譲れないと言って、タウンハウス内で一番居心地の良い客用寝室を改装し、サラに与えたのだ。改装はベッキーが受け持ち、重厚な内装を若く華やいだものへと変えた。
 サラはこれを感謝して受け取ったが、こころはやはりウェストサセックスにあった。レイノルズ館の自分の部屋が懐かしかった。あそこには華やかなものは何もないけれど、安心できるくつろいだ空気がある。

 今日、万事首尾よくいけば、ひとまず祖父の城館へ移ろうと決めた。レイノルズ館ほどではなくても、重厚な城館の中にあるサラの部屋は、きっとここよりも居心地がいいだろう。アーサーと衝突するのは避けられないし、妹の名誉を何としても守ろうという兄の気持ちを踏みにじることになるのだから、顔を合わせにくくなる。
 その点、祖父母はサラを甘やかしてくれるから、追求が甘い。渋い顔はしても、不始末をしでかした孫娘を迎え入れてくれるだろう。それから急ぎ、ウェストサセックスに帰ればいい。幸い、大した荷物はない。必要最低限のものをスーツケースに詰めればよいのだ。豪華なドレスなどは、ここに置いていけばいい。
 やるべきことを全て頭の中に叩き込み、サラは俯いていた顔をゆっくりと上げた。兄たちにも負けない頑固さが顎のあたりに滲み出て、サファイアの双眸には深い輝きが宿っている。
「自分のすべきことをするだけよ」
 兄たちが正しいと思うことをするように、自分もまた、正しいと思うことをするのみだ。固く思い定めて、サラは立ち上がった。


* * *

 まだ夢の余韻が残るぼんやりとした意識の中で、ベッキーは隣にあるはずの温もりがなくなっていることに気づいた。手で確かめれば、シーツはまだ温かい。
 衣擦れの音に導かれるように、ゆっくりと目を開けると、夫の長身のシルエットが視界に飛び込んでくる。ガウンの上からでも簡単に見て取れるがっしりとした体のラインは、昨夜の濃密なひと時を思い出させて、ベッキーを落ち着かない気分にさせる。ブラッドやソフィアのように新婚というならまだしも、既に二人の子供もいるというのに、夫との親密な触れ合いは、ベッキーを初心な娘のような気持ちにさせるのだ。
 一度書斎へ行ったのか、夫の手には新聞が握られている。あとで社交欄をチェックしなくてはいけないわと思っていると、夫と目が合った。固く引き結ばれた唇が綻び、怜悧と評される稲妻のような灰色の瞳に、やわらかな光が灯る。

「おはよう。起こしてしまったかな」
「おはよう、あなた。ちょうど起きなくてはと思っていたところよ。カーテンを開けてもらえる?」
「仰せのままに」
 微笑みながらベッキーが頼むと、アーサーは恭しいお辞儀をわざをしてみせてから、分厚いカーテンを開けた。朝の白い光が室内に流れ込み、ベッキーは眩しげに目を細める。光の加減からして、メイドが起こしに来るまでにはまだ余裕がある。
 上半身を起こして背中に枕を挟み、寄りかかるようにして、ベッキーは夫の様子をじっくりと眺めた。ガウンの下はシャツを着込み、髭もさっぱりと剃られていて、髪にはしっかりと櫛も通っている。彼がとっくに目を覚まし、身支度を済ませたのは明らかだった。

 だが、それは珍しいことだった。夜会で明け方まで外出した翌朝は、多忙なアーサーもできる限り予定を入れず、ベッキーと共にゆっくりとモーニングティーを楽しみ、くつろぐことにしている。昨夜も帰宅したのは日付が変わって数時間経った頃であり、夜会の興奮で火照った体を持て余し、濃いひと時を過ごしてから、体を寄せ合うようにして眠った。その間アーサーは、翌朝に用事があるとは一言も言わなかった。何かあれば包み隠さずベッキーに打ち明けてくれる彼だから、彼女は一緒にゆっくりとくつろぐものだと思い込んでいた。
「まだ眠っていてもいいのに。昨夜はちょっと君に無理をさせたからね」
 ベッキーの眼差しに宿る探るような光に気づいたのか気づかないのか、アーサーはガサガサと新聞を広げながら、ユーモアたっぷりに声をかけた。
「疲れているだろう?」
「それはあなたもそうでしょう、アーサー」
 ベッキーが水を向けても、聞こえていないかのように、彼はくつろいだ表情のまま、新聞に視線を落としている。

 何かが変だった。思えば、昨夜も何かが変だった。
 ベッキーは眉を寄せて、太く編んで下ろした髪を弄んだ。昨夜から感じている違和感の正体を確かめようと、ベッキーは記憶を手繰り寄せた。
 昨夜はサラを連れて夫婦で夜会に出かけた。途中からベッキーはアーサーに連れられてカードルームに籠もり、それからダンスホールに戻って、顔見知りのご婦人方や紳士方と談笑した。最近の大陸情勢が不安定だとか、ロンドン市場に他国の投資家が随分参入してきているだとか、さる妃殿下のドレスはどこで注文したものだとか、様々な話題に耳を傾け、相槌を打ち、話題が不穏な方向へ向かいそうになればさりげなく話を変えてと、聞き役もなかなか忙しい。その間、今年の花嫁花婿探し市場の最新情報を手に入れるよう、ベッキーは話術を駆使したのだった。

 義妹のサラが社交界にデビューしてから、今回で2回目のシーズンになる。もともと野望があるわけでもなく、名家の子女の義務としてデビューしたに過ぎない印象のある彼女だから、他家のご令嬢と違って、躍起になって花婿候補を捕まえることは昨年もしなかった。実家の期待を背負っているわけでもない、身分財産縁戚関係に恵まれているサラである。ウェストサセックスで若干浮世離れした生活を送っているせいか、あの年頃の娘にしては老成した落ち着きがあり、恋愛沙汰に浮かれることもない。
 勿体ない、とベッキーは思うのだ。
 生まれ持ったバックグラウンドでは、他のご令嬢の誰にも引けを取らないし、気取ったところのない性格はとても好ましい。年齢の割りに浮ついたところもなく、子供から年配の人とまで上手くやっていける。それにサラ自身は地味だと評している容姿も、薔薇のような派手さはなくとも、清潔で可憐で、一緒に過ごす人間をくつろがせる魅力を持っていると思う。つまり、内側も外側もサラは非常に好ましいということだ。
 家族は全員がサラを愛しており、彼女の価値に相応しいだけの幸せを手にすることをこころから願っている。何しろ、両親の事故以降、裕福な名門貴族の令嬢として許されていた贅沢を、サラはずっと遠ざけてきた。豪華なドレスも宝石も小物も、望めば祖父や兄たちが喜んで買い与えただろうに、欲しいと訴えたことはなかった。

『どうかあの子をよろしく』

 このシーズンが始まる前に、義母アメリアから届いた手紙には、世捨て人のような生活を好む末娘を案じる想いが書き連ねられていた。サラの財産が目当てではなく、彼女の価値がわかる男性と結ばれて欲しい。その想いは、アメリアだけでなく、2組の兄夫婦も一緒だ。
 社交界から『余り者』とみなされるまで、サラに残された猶予はあと1年もない。今シーズン中に花婿を見つけないと、来シーズン以降はサラにとって不利になる。家族や友人は気にしなくても、世間は、サラには何か欠点があるから結婚ができないと考えるようになるだろうし、若手の貴族男性はデビューしたての令嬢たちへとターゲットを変えるだろう。残るのは、サラの財産を狙っている男性か、男やもめや年配の男性、放蕩者ぐらいだろう。そのいずれも、ベッキーたちが考える花婿候補としては好ましくない。ふたりの間に愛情があるのならば別であるが。
 男たちがこころに抱える野心や欲望に、世間慣れしていないサラは疎いところがある。ウェストサセックスで暮らす彼女の周りには、善良で素朴なひとびとしかいないからだ。

 だからベッキーは、義姉として、友人として、サラの行く末にはこころを砕いている。アーサーも、妹に群がる男たちには目を光らせているが、なにぶん忙しい。見落としのないように、ベッキーはサラのダンスカードを埋める紳士方の評判を、委細漏らさず、人脈を駆使して集めることにしていた。
 昨夜は、ウィルトン子爵家の次男坊が、またもや熱心にサラにつきまとっていたようだ。昨シーズンは他の取り巻きの中に埋もれていたような男性だし、普段アーサーやブラッドが付き合いを持つようなタイプの男性ではないし、これまで名前を耳にしたことはあっても、あまり重要な人物とはみなされていなかった青年である。今年に入ってからはシーズン前からグローヴナー・スクウェアの屋敷にせっせと通ってきて、花束をしょっちゅう贈ってくる。貴族的な顔立ちの、優美で線の細い青年だが、ベッキーは彼のことがどうも好きになれなかった。ヒューズ3兄妹に長年仕えるベッシーは、あからさまに胡散臭げな眼差しを向ける始末だ。
 彼の父親は実に立派な英国紳士であるし、バリー伯爵家とは長い付き合いがある家柄だから、アーサーは多少のことは大目に見ているようだが、ベッキーは不安で仕方なかった。あの青い眼差しには、野心が煌いているような気がしてならないのだ。

 ベッキーが不安を感じるには理由があった。女性を弄ぶことに喜びを感じる放蕩者――社交界の一部ではそんな評判があることも、知っているからだ。そしてサラに近づく彼の眼差しに、時折敬愛とは別の光が浮かんでいるような気がしてならない。もっと抜け目のない、酷薄な光である。
 昨夜も彼がサラにまとわりついていたが、途中から上手くウィルがあしらってくれたはずだった。ウィルに対しては、家族の誰もが絶対的な信頼と愛情を抱いている。彼は、ライアン・ケースなどが逆立ちしても足元には及ばないぐらいの、唯一無二の存在として、地位を勝ち得ていた。ベッキーがウィルと知り合ったのは、アーサーと結婚してからのことだったが、彼が信頼に足る人物だということは、十分に知っていた。ウィルはサラに対しても兄のように細やかな心遣いで接してくれるし、アーサーよりもひとのこころの機微に敏感な分、他人が見落としそうなところも気づいてくれる。

 その彼が昨夜は、カードルームにいたベッキーたちのところへ、ウィルトン家の次男について苦言を呈しに来たのだった。家族同然の間柄とはいえ、出るところと引くところを心得ているウィルではあるが、サラのこととなると、譲らないところがある。サラにとっては第3の兄というわけだ。実兄ふたりを除けば、他のどの紳士よりも信頼の厚いウィルに、昨夜のベッキーはサラのことを任せた。
 そういえば、結局あの後はどうなったのだろう。何事もなかったのだとは思いたいが・・・・・・。

 側にいたはずのアーサーが途中で姿を消し、しばらく経って戻ってきた時も、ベッキーはさほど気に留めていなかった。きっとウィルがサラの相手をしているのだと思っていたのだ。帰る時になってアーサーから、サラは一足先に帰宅した、疲れていたようだと聞かされて、驚いた。
 サラの体調を案じ、心配していたベッキーだが、屋敷に到着した時にはサラが既に自室に引き取ったと聞かされ、昨夜のうちに会いに行くことを控えたのだった。夫婦の寝室に引き上げてからも、サラのことをあれこれと思い遣っていたベッキーだったが、途中からまともに思考することもできなくなり、そのままうやむやになってしまった気がする。夫の腕の中に抱きとめられると、どうにも思考力が麻痺してしまうのだ。
 今朝のサラの具合はどうだろう。ロンドンに出てきて以来、行事が盛り沢山の毎日だ。慣れない彼女は、相当疲れが溜まっているだろう。

「サラの具合は良くなったかしら。心配だわ」
 窓辺の椅子に腰を下ろし、黙々と新聞をめくっているアーサーに向かって、ベッキーはベッドの上から声をかけた。
「もし出歩けるようなら、気分転換にオックスフォードストリートにでも一緒に行ってこようかしら。今夜は夜会がないから、ゆっくりできるわ。子供たちと一緒にハイド・パークに散歩に行ってもいいわね」
 とりとめのないお喋りを続けながら、ベッキーがそっと夫の様子を窺うと、彼は新聞をテーブルの上に置き、小さく息を吐いたところだった。何か思い煩うことがあるのか、眉間には皺が寄っている。夫に駆け寄り、その皺を指で伸ばしてやりたい衝動にベッキーは駆られたが、黙って夫の言動を見守った。

「せっかくだがベッキー、サラを連れ出すのは明日以降にしてくれないか?」
 ベッキーの期待通り、夫は漸く、口を開くことに決めたようだ。快哉を叫びたいところだが、そんな素振りは微塵も表に出さず、ベッキーは口を噤んだまま、眼差しで夫に続きを促した。
「今日はあの子のことで、色々と取り計らわねばならない問題があるんだ」
 アーサーはおもむろに席を立ち、窓の方へ体を向けた。そうなると、ベッキーの位置からは夫の表情は読み取れない。そのため慎重に、ベッキーは尋ねた。
「問題というのは、昨夜サラが早く帰ったことと関係しているの?」
「ああ」
 短く答えて暫しの間を置き、アーサーはとうとう核心を口にした。

「今日の午前中、ウィルが来る」
「ウィルが?何か彼にも関係があることなの?」
 疑問符で頭を一杯にしてベッキーはなおも尋ねたが、アーサーはそれ以上、この場で語るつもりはないようだった。夫はくるりとこちらを振り向いたが、灰色の瞳にも、整った顔立ちにも、手がかりになるようなものは何も浮かんでいなかった。至極冷静な様子で、彼は告げただけだった。
「話し合いが終わってから、詳しい経緯は説明するよ。だからそれまで、私に時間をくれないか」
 アーサーがそこまで言うのは、珍しい。隠し事はせず、話し合って解決していくという夫婦の決まりごとを一時的にせよ破っていることに、後ろめたさを感じているのだろうか。それ以上の追求は諦め、ベッキーは渋々頷いた。
「わかったわ。貴方がそこまで仰るのなら」
「ありがとう」

 ベッドへと近づき、アーサーは妻の頬へと唇を落とした。顔を上げた時、アーサーの顔は冷静沈着な当主の顔に戻っていた。しかし唇から零れ落ちたのは、彼らしくない、弱気な言葉だった。
「果たしてこれで正しいのか――私にも自信がないんだ」


* * *

 妹と親友と、大切なふたつの存在の未来が、これからの話し合いにかかっている。そう意識すればするほど、アーサーの眉間の皺は深くなる。
 ベッキーにはまだゆっくり休んでいるように告げ、ひとりきりで慌しく朝食を済ませた後、アーサーはひとり、自身の書斎の中を、うろうろと歩き回っていた。事をあまり大事にしたくないので、ブラッドにはまだ声をかけていなかった。ある程度3人の話がまとまってから、弟には事情を説明し、協力を仰ぐつもりだった。

 父から受け継いだ重厚な雰囲気の書斎は、床に敷き詰められた足の長い絨毯のおかげで、足音を吸収してくれる。暖炉には火が焚かれており、部屋の中は暖かかった。窓際にしつらえられた机の横に立って、カーテン越しに外の風景を、見るとはなしに眺める。カントリーハウスのような広さはないが、敷地内には庭師心づくしの緑が植えられ、書類に疲れた目を休めることができるのだ。
 今朝のアーサーの場合、目は休まっても気が休まらないというのが困ったところだ。バリー伯爵家にはここ数代、スキャンダルを起こした者はいなかったし、レイモンド侯爵家は厳格なほど品行方正なことで知られている。王族とも縁の深い家柄であるから、世間の評判には人一倍神経質な家風なのだ。
 スキャンダルといっても、例えば両親やブラッドとソフィアのような、身分違いの恋を実らせたという話題ならば良い。今回のサラの場合は、それとまた逆の話だ。
 机の上には、封を切られて無造作に置かれた手紙がある。宛名はバリー伯爵閣下となっている。今日の朝一番で届いたものだ。

 アーサーの口から本日何度目になるかわからないため息が零れようとした時、ドアをノックする音が響いた。表情を改め、振り返って、アーサーは「お入り」と声をかけた。ウィルが来るにはまだ早い。遠慮がちにドアを開け、するりと体を滑り込ませてきたのは、サラであった。妹の表情は、これまで見たことがないくらいに硬い。
 ドアを閉め、ふたりきりになった室内に、気まずい沈黙が下りる。それを破ったのは、サラの緊張した声だった。
「お話があります。ウィルとの婚約のことで」
 真っ青な瞳と灰色の瞳が、真正面からぶつかった。

2011/05/04up


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