こころの鍵を探して

 偽りの誓い[4]

 喉の奥は引き攣りそうだし、コルセットで締め上げられた胸は、呼吸困難を引き起こしそうだ。胃のあたりはぐるぐる回っているような気がしてくるし、床を踏みしめているはずの足も、何やら覚束ない気がする。
 自分の意気地のなさに呆れて、サラは、そっと静かにため息を漏らした。誰にも気づかれないよう、慎重にしたつもりだったが、目端の利く義姉たちの耳には、しっかりと届いてしまったらしい。

「嫌ね、サラ。こんな時にため息を吐いたら、せっかくの婚礼の幸せが逃げてしまうわよ」
「疲れてしまったのね。もうこれで支度は済んだから、休むといいわ」
 ベッキーが片眉を上げてぽんぽん言うと、その傍らでソフィアが困ったように微笑み、サラを鏡台の前の椅子へと導いてくれた。侍女たちが手際よく道具を片付け、一礼して退室していく。

 窓から差し込むやわらかな光が、新しい1日が到来したことを告げている。サラにとっては緊張の1日がいよいよ始まったのだ。
 鏡の中から、青白い顔の花嫁が、怯えたようにこちらを見つめている。
「わたくしって、意気地なしだったんだわ」
 サラが力なく零すと、ベッキーがにこりと笑みながら、ドレスの裾をふわりと広がるよう直してくれた。あとはヴェールを被れば、花嫁の完成だ。
「あなたばかりじゃないわよ、サラ。婚礼の時になれば、誰だって意気地なしになるものよ。わたくしもそうだったもの」
「ベッキーも?」
 思いがけない義姉の台詞に、サラは反射的に尋ね返してしまった。すると、サラの脇に立つソフィアが、くすくすと笑い出すのを止められずに、ベッキーからじろりと一瞥を投げられる。鏡越しに繰り広げられる義姉たちのやり取りを眺めながら、サラは肩を竦めた。

「信じられないわ。あの時のベッキーは、どこから見ても落ち着いていて、完璧な花嫁だったもの」
 花嫁と一緒にヴァージンロードを歩いた小さなサラは、美しいレディ・レベッカを見て、何と堂々とした花嫁なのかと感心したものだ。名門公爵の孫娘、実父は伯爵という家柄の彼女と、アーサーとの婚礼は、盛大なものだった。招待客も大勢いたし、英国の名士と目される威厳溢れる人々の出席も多い中で、年若い花嫁は、気後れした風もなく、そつのない優雅な立ち居振る舞いで、並み居るひとびとの驚嘆のため息を誘ったのだ。
「付き添い役のわたくしの方が、よほど緊張していたもの」
「その気になれば、あなただって王女殿下のように立派に振る舞えるわよ、サラ」
 いつも浮かべる自信に満ちた微笑みの中に、義妹への気遣いを交えて、ベッキーが鏡越しに頷いた。
「いざとなれば肝が据わるものよ。その辺りは、殿方よりも女性の方が腹を括れるわ。大丈夫よ、あなただっていつも通りにしていれば、完璧な花嫁に見えるから」
 深窓の令嬢育ちのわりに、ベッキーには、気さくにぽんぽんと小気味良く言葉を紡いで、相手の背中をしゃんとさせることができる。彼女のそのような裏表のない物言いが、生真面目なアーサーの肩の力を程よく抜かせる効果があることは、サラも知っていた。実際に自分の強張った両肩も、いくらかほぐれていくような気がしてくるから不思議だ。

「そうそう。あなたを取って食おうと待ち構えてる方なんていないわ。わたくしたち家族が、ずっと見守っているから安心してちょうだい」
 珍しくソフィアまでが、砕けた物言いをして、にこりと微笑んだ。美しい義姉の顔を見返して、おずおずと微笑みながら、サラは脳裏によぎる余計な記憶を、どうにか振り払うことに成功した。かつてウィルがソフィアに求婚をしたとか、そういったことは、今はひとまず脇に置いておけばいい。ソフィアとブラッドが愛し合っているのは間違いないし、二人の結婚後、ウィルを交えた彼ら三人の間には、屈託もないように見える。

 自信がないから、色々なことが気にかかるのだわ。

 鏡の中から見返してくる自分に向けて、片眉を上げてみせながら、サラは微かに首を横に振った。
 いいえ。自信がないというのもあるけど、後ろめたさがどこかに残っているのだわ。意図したわけではないけれど、ウィルを追い詰めて、責任を無理やり取らせたという気まずさを、上手く拭い去ることができないでいる。

 昨日までもあれほど悩んだというのに、まだ思い切りのつけられない自分が、サラは情けなくて仕方なかった。
 ――でももう、逃げられやしないのだわ。
 鏡の中から見つめ返してくる花嫁に、サラは、こころの中で呟いた。

 身に纏っているドレスは、繊細なレースがふんだんに施された、とても美しいものだ。サラの細い肢体を優雅に包み、上品だが華やかさを与える一品で、白い絹の糸で薔薇の花が一面に刺繍されている。こんな状況ではあるが、初めてドレスを見た時、サラの胸は束の間、少しだけ浮き立った。女性ならば誰もが夢見るような、そんなドレスだ。
 婚約直後にベッキーがロンドン一の腕利きと名高い仕立て屋に話をつけ、レイモンドの祖母を交えてデザインを決め、謝礼に糸目をつけず、お針子を総動員して大至急で縫わせたのだ。侯爵夫人も長いことロンドン社交界のトップに君臨してきた貴婦人であり、そのセンスには一目置かれている。そこに遅れて到着したソフィアも加わり、レイモンド一族の女性陣三人が総がかりで、サラのために一番似合う晴れ着を用意させたのだった。
 サラのために、寸分隙のない支度をさせる。それが、祖父母や兄夫婦たち全員に共通した想いだった。そんな家族の想いは、サラの全身を温かく包み込んでくれる。

「ヴェールをつけましょうね」
 ソフィアが慎重にヴェールを持ち上げ、ベッキーの介助を受けながら、サラの頭にティアラごと着けていく。ティアラは祖母が譲ってくれた、侯爵家に代々伝わる一品である。華奢で精巧な造りではあるが、散りばめられたダイヤモンドが、窓の光を受けて無数に煌く。
 ずしりと、重みのあるティアラであった。覚悟を決めなくてはならないのだと、否応なく、サラに悟らせる重みであった。

 まだヴェールで顔を覆わずに、頭の後ろの方にふわりとした繊細な薄布を流しておいてくれる。きちんと形を整えてから、ふたりの義姉は互いに顔を見合わせて、満足そうに微笑んだ。恐らく、ロンドン社交界一、ファッションに敏感なレディたちだとサラは思っている。彼女たちがOKを出したら、他のご婦人方にあら探しをされるような、みじめな想いはせずに済む。
「素敵よ、サラ」
「美しい花嫁だわ」
 口々に褒めてくれるが、サラは控え目に微笑み返すだけに留めた。人目を引く華やかな美しさを、ふたりほどには持ち合わせていないと知っているから。
「ありがとう。愛しているわ、ふたりとも」
 これといった取柄のない自分に、惜しみない愛情と親しみを向けてくれる大切な家族に、こころからの感謝を込めて、サラはふたりを仰ぎ見た。兄たちが素晴らしい伴侶を得たことが、今ほど誇らしく感じたことはなかった。

 サラのこころの中を見透かしたのか、ソフィアが、安心させるように頷いた。
「わたくしたち家族は、これから先もずっと、あなたを見守っているわ。あなたはわたくしたちのかけがえのない妹ですもの」
 萎えそうになる気持ちを必死で奮い立たせていたサラに、その言葉は深く滲み込んでいった。乾いた地面が水を吸い込むように、サラのこころの深いところに、みるみるうちに吸い込まれていく。代わりに浮かんできたのは、熱くこみ上げるものだった。それを、強く瞬きをして素早く押し戻す。
 花嫁の両手が、ふたりの姉の手をそれぞれ掴み、ぎゅっと握った。
「ありがとう」
 こころを落ち着かせる時間を与えようと、ふたりは暫くしてからサラをひとりきりにしてくれた。レイモンドの城館の、サラに与えられた部屋で過ごす、独身時代最後の時だ。祖父母はこの部屋をこのままにしておいてくれると言ってくれている。良かったら隣の部屋を改装し、夫婦で泊まれるように寝室にしてくれるとも。その申し出には、サラは曖昧に微笑むだけに留めておいた。ウィルに尋ねることも、今は怖かった。

 ベッシーは、ウィロビー伯爵家へ花嫁と一緒に運ぶ荷物の点検をしてくれている。大方の荷物は運んでしまったが、細々とした荷物は、結婚式の後に新婚夫婦と一緒に馬車で運ぶことになっている。式の前に話をする時間をとも思ったが、サラは義姉たちに頼むのをやめた。下手にベッシーに会えば、気持ちが緩んで取り乱してしまいそうで怖かったのだ。

 馴染んだ部屋の中、サラは椅子に腰かけたまま、暫し目を瞑った。
 叶うならば、レイノルズ館から嫁ぎたかった。それが無理なら、せめてハンプシャーのゴールド・マナーから。両親の思い出が詰まった館から、ヴァージン・ロードへの第一歩を踏み出せないことだけが、心残りだった。とはいえ、このような事情では贅沢を言ってもいられない。

 今日は、ヴァージン・ロードで花嫁をエスコートする役目を、祖父が引き受けてくれた。最初はアーサーをとサラは考えていたのだが、亡き息子の代わりに是非にと、祖父が申し出てくれたのだった。両親不在というサラの負い目を、少しでも打ち消して遣りたかったのだろう。両親が亡くとも、レイモンド侯爵がついているということを、列席者――特にウィロビー伯爵家側のひとびとに誇示しようという祖父の意図を感じ取ったが、サラは有難く受けることにした。
 些細なことで揺らいだりしない、頑強な精神を持つ祖父が、側で支えてくれることが、サラには素直に嬉しかったのだ。

 もう間もなく、侍女が呼びに来るだろう。そうしたら礼拝堂に移動し、聖具室で最後の身支度を整え、祖父と共にヴァージン・ロードを祭壇まで歩くのだ。
 それから後は、いよいよウィロビー伯爵夫人としてのサラの未来が始まる。

 俯きかけたところに、ノックの音が届いた。もう礼拝堂へ行く時間だろうか。どきりと胸が震えた。目を瞑ったまま返事をすると、ドアが開く音の後に、聞き慣れた低い声が空気を震わせた。
「お嬢様」

 思わず目を開けると、鏡の中からジェイがこちらを見つめているのが見えた。がっしりとした長身がドアの敷居を塞ぐように立っていて、まるで、ドアの外の未知の世界から、サラを全身で守ろうとしているかのようだった。そう、中世の荒ぶる騎士のように忠実に。侯爵家の上品なお仕着せも、彼が放つ野生的な気配を完全に閉じ込めることはできない。日焼けした肌が、ピンと糊のきいたシャツから覗いているのが、どことなくこの場に不似合いだ。そう、まるで俄仕立てのお姫様になった、今のわたくしのように。
 とりとめのない自分の思考に、思わずサラは苦笑を零した。緊張でがちがちだから、頭の中で現実逃避しているのかしら。目の前の現実から逃げ切ることなんて、誰にもできないのに。
 ずっと強張った表情のままで支度をしていたせいか、唇も頬の筋肉も、いつものようには動かない気がする。きっと今のサラは、情けない、みじめな苦笑を浮かべているに違いない。その証拠に、こちらを窺う黒い瞳が心配そうに曇っている。大きな身体がしょんぼりと縮んだように見えて、サラの強張りがどこかへと溶けて消えていった。

「ジェイ」
 名を呼ぶと、彼はほっとしたように息を吐いてから、ドアを閉めてサラに近寄った。ジェイの存在を感じ取って、サラをがんじがらめにしていた緊張が少しずつ緩んでいく。
 屈強な身体つきを持ち、どこか荒ぶる狼を連想させるジェイだが――ちなみに誓って言うと、伯爵家に仕え始めてからのジェイは、従僕の鏡と言っていいほど、マナーを心得、羽目を外したことなどない真面目な青年であった。それなのに、彼の鋭い眼差しのせいだろうか、それとも荒削りの顔立ちのせいだろうか。彼は檻に閉じ込められた野生動物を思い起こさせる。ハンプシャーの野原を駆け回っているのがしっくりすると、サラはずっと思っていた――サラにとっては、彼の頑強さは、心強い限りだった。心細さを押し隠して始めたレイノルズ館での暮らしを支えてくれたのは、ベッシーとジェイだった。特に男手が必要とされる場面では、彼は積極的に働いてくれた。

 サラにとってジェイは、雨宿りをする大樹のような存在だ。サラを絶対的に信頼し、裏切ったり失望させたりすることは決してない。サラにとっては実際に、騎士のようなものだ。

 大きな彼の手には不似合いな、可憐なブーケを見て、サラは両目を細めて微笑んだ。
「綺麗。可愛らしく仕上げてくれたのね」
 賞賛を浴びて、ジェイの口元におずおずとした微笑みが浮かぶ。まるで壊れやすい硝子細工を扱うように、彼は細心の注意を払って、ブーケをサラへと差し出した。
「ありがとう」
 身構えることなく、ごく自然にブーケを受け取れたのは、いつも通りに揺るがない、ジェイの放つ落ち着いた空気に触れたからだろう。無骨な指が作り上げたとは思えないほど、淡い色を取り取りに散らせたブーケは、美しく可憐だった。顔へ近づけて香りを吸い込むと、瑞々しい土と草の匂いが、清涼剤のようにサラのこころを平らかにした。

 大丈夫。前に進むしかないわ。
 ブーケから顔を上げたサラの表情は、レイノルズ館で見せるのと変わらないくらいに、平静を取り戻しているように見える。歪んだ口元が微かに上がり、常に控え目な微笑みを浮かべているような、サラらしい愛嬌も、今日ばかりは花嫁への視線を和らげる立派な鎧となっている。
 それでもジェイの目には、サラの青白さと、真っ青な瞳の奥に潜む陰が、心配の種に映った。一見、サファイアの瞳を輝かせて、優雅な物腰で振る舞う花嫁には、何の不安もないように見えるだろう。
 彼女が、激しく押し寄せてくる不安を意志の力で捻じ伏せて戦っていると、列席者の何人が気づくだろうか。

 願わくば、彼女の夫となるウィロビー伯爵こそが真っ先にそのことに気づき、彼女を安全で安心できる腕の中に守り包んで欲しい。レディ・サラには、誰よりも幸せな未来が相応しい。ジェイも、こころのざわめきを押し殺して、主を包み込むような温かさを瞳に浮かべ、ブーケに見惚れるサラを見つめた。
 独身時代のレディ・サラに残された、こころ休まる最後のひとときだった。

 やがて、侍女がノックでこのやさしい時間を切り裂く。そうしたらサラは、ウィロビー伯爵に相応しい花嫁、侯爵家の孫娘として、胸を張り、足を踏み出すしかないのだ。


* * *

 礼拝堂の中には、大勢のひとが詰めかけていた。レイモンド侯爵家、ウィロビー伯爵家双方の、新郎新婦に近しいひとびとが、晴れ着に身を包み、息を潜めるようにして、主役のふたりを見守っている。
 春を思わせるやわらかな光が、祭壇の後方にあるステンドグラスを通して、黄色や青といった色とりどりに、祭壇の前に立つ花婿と牧師に降り注いでいる。

 がっしりとした祖父の腕を頼もしく思いながら、サラは、ヴァージンロードをゆっくりと進んでいった。途中、両側の信徒席から様々な種類の視線が注がれるのを、どこかぼんやりと、遠い世界の出来事のように感じていた。サラにとっては、ヴァージンロードの先に佇む青年の姿だけが、現実味を帯びた存在だった。
 薄い霞のような、レースのヴェール越しには、ウィルがどのような表情でこちらを見つめているのか判別できない。サラは俯き加減に、ちらちらと、じきに夫となるひとへ目を遣りながら進んだ。

 アーサーとベッキー、ブラッドとソフィアが、それぞれに心配そうな眼差しを向けてきていることにも、サラは気づかなかった。とりわけ、ソフィアは憂いを含んだ視線を、サラだけでなく、祭壇の前に佇むウィルへも向けていた。彼らの両脇では、幼い子供たち――ジェフとレイの兄妹と、グレースが、無邪気に瞳を輝かせて、着飾った花嫁を見つめていた。

 やがてヴァージンロードの果てで、そこまでしっかりと支えてくれていた腕が離れていく。支えを失い、急に心細くなる。ジェイのこころ尽くしのブーケを握る両手に力を込めて、サラは、祭壇の前に立った。膝が震え出さないのが不思議だった。あれほど怖れていた瞬間が、サラを掠りもしないで、他人事のように飛び去っていくようだった。
 牧師の声も、ウィルの声も、サラの耳を幻のように通り過ぎていく。きっと夫婦として大切な心得とか、そういったお定まりの説教をいただいているはずなのに、サラの頭の中に響いてこないのは、どうしたことだろう。人形のように、淡々と、式の手順をこなしていくだけだった。

 漸くサラが我に返ったのは、妻として夫に生涯忠実に仕えるかという問いかけを受けた時だった。「はい」と答える声が、僅かに掠れたことに、ウィルは気づいただろうか。
 俯いてブーケを握り締めていると、気づいた時には、ヴェールをそっと持ち上げられていた。俄かに視界がはっきりとして、幼い頃から見慣れた男のひとの顔が、飛び込んでくる。

 ハッと目を瞠った時には、ウィルの顔が視界一杯に広がるほど近づいていた。茶色の眼差しには、かつて浮かんでいた慈しみも親愛の光もなく、何の感情も浮かんでいなかった。よそよそしいほどに礼儀正しく振る舞うウィルからは、サラとの間にはっきりとした距離を置くのだという意志が感じ取れる。ため息がかかるほど距離がなくなると、そこで耐え切れず、サラは己の視界を閉ざした。
 柔らかな温もりが、唇に落とされるのを感じて、サラの薄い肩は小さく震えた。無邪気な夢想に浸っていられた頃、いつかウィルにキスをされたらと想像し、胸を高鳴らせたこともあった。彼の唇の柔らかさを、こんな風に義務的なキスで、知ることになるなんて、思いもよらなかった。

 ごく僅かな時間触れ合った後、温もりが離れていくのを感じて、胸の奥が、引き絞られるように切なく痛んだ。その痛みの中に、一片の哀しみが混じっていることに、サラは気づかない振りをした。


* * *

 式の後、レイモンド侯爵家の城館で引き続き行われた昼食会は、一見和やかな雰囲気のうちに進められた。式に参列した両家の親族は、城館の広間のあちこちに散らばって、新郎新婦の前途を祝って談笑していた。

 ウィルと並んで上座のテーブルに座り、次々とひとびとの祝辞を受け取りながら、サラは頬が引き攣らないよう、控え目に微笑むことに必死だった。ウィルは社交に長けた彼らしく、笑顔でそつなく振る舞っているが、社交家の素質がないと自認しているサラは、誰かと軽口を叩くような余裕などなかった。
 ウィルは新婚の夫らしく、時折サラに何か口にするようにと料理を勧めてきたが、ひと口ふた口食べるのがやっとで、味などさっぱりわからず、まるで砂を噛んでいるようだった。空腹など感じるゆとりもない。サラにとっては、大勢の目に晒されながら、こうしてウィルと新郎新婦らしく振る舞わなければならないことが、大変な苦痛だった。だがそれを表に出すまいと、ありったけの精神力で捻じ伏せていた。その甲斐あって、花嫁は恥らいながら、上品に微笑んで花婿に寄り添っていると、招待客には好意的に受け止められた。

 拷問のような時間も、やがて終わりに近づいた。ウィルのタウンハウスへ出発する時間となったのだ。名残を惜しむレイモンド侯爵夫人が、せめて今宵は城館に泊まっていったらどうかとウィルに申し出たけれど、彼は侯爵夫人の感情を傷つけないよう、言葉巧みに、やんわりとしつつもきっぱりと断った。おかげで老いた侯爵夫人は、新婚だもの、早くふたりきりになりたいわよねと、残念そうだが理解ある微笑みを浮かべたのだった。

 レイモンド侯爵夫妻、アーサーとブラッドの一家、更にウィルの親族も城館の玄関へ揃い、馬車で走り去る新婚夫婦を見送った。馬車を見送る人々は、こぞって微笑みを浮かべていたが、その色合いは、ひとりひとり異なる色が混じっていた。
 最後に兄たちを振り返ったサラの瞳に、僅かだが不安が混じっていたのを、アーサーは見逃さなかった。妹の名誉と幸せを守るためとはいえ、今回の結婚を強引に進めたのは自分だという自覚が、今日の彼の胸を重くしていた。それだけに、怯えたようなサファイアの瞳が、瞼の裏に焼きついて消えない。胸の中につかえる塊が、更に重さを増したのを、彼は感じ取っていた。

 だがしかし、もはやルビコン川を渡るしかないのだ。状況を打開するだけの力が、サラにはあると彼は信じていた。だからこそ、ウィルに相応しい花嫁たり得るのだ。アーサーは、これでよかったのだと自分の胸に言い聞かせながら、隣に佇む弟へちらりと視線を向けた。眉を顰める妻たちと意見を異にし、アーサーの狙いを見抜き、支持してくれたのはブラッドだった。

 兄の視線を感じたのか、ブラッドがこちらへ顔を向けた。兄よりも気さくな人柄で通っている彼の表情は、幸せな花嫁を送り出したばかりとは思えないほど、兄そっくりに厳しいものだった。
「サラはきっと、どうにかしようと努力するよ」
 夫を支える妻として、役目を忠実に果たそうとするだろう。弟の言葉に、アーサーも頷いた。あの子は真面目な子だから、今回のような経緯であれば尚更、ウィルに尽くそうとするだろう。
 問題は・・・・・・。

「問題はウィルだ」
 ブラッドの表情に、憂鬱のヴェールが下りる。
「このチャンスをものにできなければ、彼はきっといつまでもあのままだよ。自分の幸運に気づかずに、幸せを遠ざけようとするだろう」
「そこまでの愚か者でないことを願うばかりだが・・・」
 親友の頑固さを思い起こして、アーサーの言葉も途中で途切れてしまう。人当たりが良い割りに、岩のような頑固さを抱えているのだ、あの男は。

「大丈夫だよ、兄さん」
 ブラッドの、妹そっくりなサファイアの双眸が、物騒な光に煌いた。
「もしサラを泣かせたら、ただではおかないから」
 それは自分も同じだ。妹と親友双方にとって良かれと思い、アーサーは今日まで行動してきたのだが、最終的にどちらを取るかと言われれば、無論妹だ。既にベッシーから、ぶつぶつ言われてもいる。そのような事態にはなってほしくないが、いざとなればウィルを切り捨て、サラを守ることを選ぶ。アーサーだけでなく、ヒューズ一族全員が、だ。

「暫くは見守るしかないな」
 アーサーの呟きには、残念そうな響きが混じった。これからはサラがウィルの庇護下に入ることを、唐突に実感したのだ。
「仕組んだのは兄さんだからね」
 同情はしないよ、と、ブラッドがぼそりと言い放つ。弟の肩に腕を回して、アーサーは、無言のまま気持ちを共有しあった。サラが自分たちの庇護から抜け出してしまったことを、ブラッドも同じように残念だと思っていることは、言葉はなくても、空気が伝えてくる。
 そのまま立ち尽くす兄弟を見て、ベッキーが、やれやれと苦笑した。彼らにとっても妹離れをする時期がきたのだ。サラがいない状況に、誰もが慣れていかなくてはならないだろう。


* * *

 扉が静かに閉まる音を聞いて、サラは、深々と息を吐き出した。今日1日の疲れが、どっと押し寄せてくる。後は休むだけとなって、余計に気が抜けたのだろう。とても親切なメイドの手を有難く思いながらも、彼女が出ていってくれて、正直なところほっとした。緊張で高ぶっているサラの神経は、ウィロビー伯爵邸について一層、時間が経つごとに、ぴりぴりと張り詰めていく。

 その原因はわかっている。
 綺麗なレースの夜着に着替えさせられ、髪も艶やかになるまで梳ってもらったが、気持ちは一向に晴れない。鏡台を覗き込むと、少しばかり頬を上気させた、ほっそりした娘が、こちらを見返している。
 サラは首を振り、鏡から離れて寝室へと入り、ベッドの端へと腰を下ろした。これから待ち受けていることを頭から一時的に追いやって、部屋の中をじっくりと観察することにする。そして、レイモンドの城館を出てからの出来事を、ひとつひとつ思い返した。

 ウィロビー伯爵家のタウンハウスは、メイフェアの高級住宅地にある。レイモンドの壮麗な城館を出てから、馬車の中はやや気詰まりな沈黙が支配して、表情には出さないよう努めたものの、サラの神経は焼ききれそうだった。そんな沈黙を破ってくれたのは、ウィルだった。

「疲れただろう、大丈夫かい?」
 冷静な中に、サラへの気遣いが滲む彼の声は、必死に張り巡らせていたサラの緊張の糸を、容易く切断してしまう。彼なりにサラと上手くやっていきたいと思ってくれているのだろうか。あの夜以来、サラはウィルの瞳を見つめるのが怖くなっていた。冷たい彼の瞳が脳裏に刻み込まれていて、またあの眼差しで見つめられるのが、耐えられなかったのだ。冷たさがなくても、他人行儀のよそよそしさで、彼とのこころの距離が遥か遠くに離れてしまったと思い知らされるのも怖かった。けれど、もし彼が友好の手を差し伸べてくれているなら、それを無下にはしたくなかった。

 思い切って顔を上げると、正面からこちらを覗き込む茶色の瞳には、サラを労わる光が浮かんでいた。それは、昔からサラが見慣れたウィルの瞳にそっくりで、ぐっと熱いものがこみ上げてきそうになる。彼がサラに対してこんな風な眼差しを向けてくれるのは、あの運命の夜以来のことだ。以前ほど過保護に、慈しむ色がなくても、サラの疲労を案じ、思い遣ってくれるのは嬉しかった。以前とそっくり同じ関係には戻れなくても、まだサラに親しみを感じてくれているのだ。ウィルがその気になれば、名ばかりの妻としてサラを扱うこともできる。彼がそうするかもしれないと、サラは怖れ、半ば覚悟していた。このところの、礼儀正しいが親しみの情が感じられない彼を見続けてきたから。
 でも、彼なりにサラとの関係を良いものにしたいと思ってくれているのかもしれない。
 僅かな希望を覚えて、サラは口元に頼りない笑みを浮かべた。

「顔が強張ってしまいそうよ。何か粗相をしでかさなかったか、心配だわ」
 茶色の眼差しに、おかしそうな光が浮かぶ。
「それはないな。君はよくやったよ。新しい伯爵夫人の評判は、上々だ」
「良かったわ」
 大きく息をついたサラに、ウィルはこれから向かう伯爵家の屋敷について説明を始めた。

「我が家のタウンハウスは、メイフェアにあるんだ。父の代で一度、グローヴナー・スクウェアの近くにあった代々の屋敷を手放していてね。私が数年前、メイフェアにある屋敷を買い取って、そこを新たなタウンハウスにした。我が伯爵家は、君のご実家ほど体力がなかったから、今の屋敷は伝統的な貴族のタウンハウスには程遠いが」
「そんなこと、わたくしは気にしないわ」
 ウィルの言葉の中に含みを感じたが、サラは何も気づかなかったように、きっぱりと言い切った。茶色の双眸の中に、ちらりと陰がよぎったような気がする。

「ロンドン中心部に出るには少し遠いが、馬車も2台あるから、1台は君専用で使うといい。執事と家政婦は、田舎の屋敷を切り盛りしている者をこちらに連れてきている。我が家の屋敷はどちらもそれほど大きくないから、両方の切り盛りを彼らに任せてあるんだ。もし何かやり方を変えたいことがあれば、彼らに相談して決めるといい。君は、屋敷の切り盛りには慣れているだろうからね」
「そうね。多分、同じ年頃の娘さんよりは慣れていると思うわ」
 サラは澄まして答えたが、ウィルは彼女が実際にレイノルズ館を取り仕切っている様子を何度も見ている。彼女の手腕については、疑問の余地がなかった。

「我が家の使用人は、長いこと仕えている者が多い。若い使用人も、一番短い者で5年は勤めている」
「そうなの」
 それでは、新人の教育について頭を悩ませることは当分なさそうだ。サラは胸の中でそっとメモを取った。
「屋敷のインテリアを変えたかったら、それも君の好きにしていい」
 続いたウィルの言葉に、サラは思わず口をぽかんと開けた。聞き返す声が、震えてしまいそうになる。

「いいの?わたくしが決めても・・・」
「ああ。構わないよ」
 不思議そうにウィルが見つめ返してくるのを感じたが、サラは、両目を閉じて、両手を胸の前で握り合わせて、口元を綻ばせた。
「有難う、ウィル」

 屋敷の内装も手がけていいとは、サラが女主人として、屋敷内の様々な決定権を握るということだ。名ばかりの妻で、煩わされたくないなら、サラにそこまでの権限を与えないはずだ。ウィルの気遣いが嬉しくて、サラは黙って喜びを噛みしめた。
「いや・・・・・・」
 戸惑ったように言葉を濁らせ、ウィルが窓の外へと視線を向ける。彼との会話は一度そこで途切れてしまったけれど、サラの口元は、屋敷に着くまで、ずっと綻んだままだった。

 住まいに関するウィルの表現は酷く控え目だったと、サラはじきに気づくことになった。
 馬車が停まったのは、壮麗な屋敷の前だった。バリー伯爵家やレイモンドの城館のように重厚で歴史を感じさせる造りではないが、正面のファサードは美しく、白い石造りの建物は、大きすぎず小さすぎず、どことなく親しみを漂わせている。門の鉄柵にはウィロビー伯爵家の頭文字であるWの文字があしらわれており、貴族の屋敷らしい上品さを併せ持っている。バリー伯爵家のタウンハウスのような小さな庭ではなく、屋敷の敷地内にはまだ若木だが、様々な緑が植えられていて、ほっとさせられる。

 ウィルが先に馬車を降り、サラを手助けして馬車から降ろすと、不揃いの砂目の粗い石を組み合わせた階段へと案内した。既に玄関ポーチには、屋敷の使用人が勢ぞろいしていて、サラの緊張が再び高まってくる。
 先頭で待ち受けていた執事と家政婦に紹介を済ませると、ウィルは意外なことに、「今一度に紹介しても、負担になるだろう。追々顔と名前を覚えていってくれればいい」と、家政婦にサラを自室へ案内させようとした。だが、新しい伯爵夫人を待ち構えていたひとびとの前を素通りするのは心苦しい。サラが躊躇うと、家政婦のミセス・ハビシャムが、「お気遣いなく、奥様」と笑顔で言い添えた。銀髪をきりりと結い上げた彼女は、厳格そうに見えるが、微笑むと印象がとても柔らかくなることに気づく。
「皆、奥様への敬意を表したくて集まっただけですわ。今は大変お疲れでしょうから、どうぞお休み下さいませ」

 そう言われれば、サラは言葉に従うしかない。実際、もっと軽いドレスに着替えたくて仕方がなかった。ウィルは新妻を有能な家政婦の手に委ねると、執事と言葉を交わしながら屋敷の奥へ消えてしまった。「きっと書斎でお仕事のお話でもなさるんですわ」と、さりげなくフォローするミセス・ハビシャムは間違いなく優れた家政婦だ。
 彼女に導かれ、2階の部屋へと案内される。落ち着いた明るいクリーム色の色調で統一された部屋は、寝室と居間と化粧室が繋がっていて、窓からは明るい南向きの光が差し込んでくる。荷物はもうほどいておきました、というミセス・ハビシャムの言葉通り、クローゼットや鏡台にはサラの私物がきちんと並べられていて、否応なく、これからここで過ごすのだと思い知らされる。

 寝室へ入る扉は居間へ通じる1箇所の他に、行き止まりの壁に、もうひとつ扉が設けられている。怪訝そうに眺めるサラへ、ミセス・ハビシャムが「それは旦那様の寝室へと繋がっている扉です。どちらのお部屋からも開けて行き来できるようになっております」と説明をくれた。
 それの意味するところを察して、途端にサラの心臓がびくりと跳ね上がったが、ちょうど若いメイドがやってきて風呂の準備を手伝ってくれたので、それ以上深く考えずに済んだ。メアリという名前の彼女は、まだ年若いものの、てきぱきと手際よく介添えしてくれる。新しい女主人へ興味津々であることが、彼女の表情の端々から伝わってくるのが、サラには愉快だった。

 部屋には居心地良い家具が据えられ、都会の真っ只中に位置するバリー伯爵家よりも、静かに休むことができそうだった。
 風呂に入って身支度を整え、晩餐用のドレスに着替えて、サラが食堂へ下りていくと、ウィルは既に席に着いていた。遅れたことを謝るサラに、ウィルは気にしなくていいと声をかけ、ふたりはそれから、食事をしながら、今後の予定について言葉を交わした。といっても、予定を決めるのは主にウィルであり、サラはそれを受け容れるだけだ。夫婦で招待を受けて外出する先をサラが決めるのは、骨の折れる仕事だったから、ウィルに判断してもらえるのは有難かった。社交界にあまり興味のない彼女にとって、どの招待を受けるべきか思案するのは、容易ではないのだ。

 社交的なウィルだが、実際のところ顔を出す場所は厳選しているという話だった。彼のような人気者は山のように招待状を受け取るが、全てに出席するのは難しい。彼の事業や評判にプラスに働くように、いかに効果的に出席する場を選択するかは、重要な問題である。もう既にいくつもの招待を受けているそうで、その中から厳選した場にはサラを伴って出席するという話だった。
 そうした予定のない日中は、サラの自由に過ごして構わないと言われたし、買い物も好きにつけで買ってくれていいとも言われた。きっと、義姉君たちが君を放ってはおかないだろうね、と彼が苦笑混じりに零したが、それにはサラも同感だった。

「だがあまり長くロンドンに留まるつもりはない」
 食後のワインを飲みながら、ウィルははっきりと告げた。兄たちからもウィルの心積もりは聞かされていたが、彼は改めて、はっきりさせる必要があると思っているようだ。わたくしがロンドンに執着すると思っているのかしら。紅茶のカップを手にしながら、サラは夫の意見に賛成した。
「ええ、それでいいと思うわ」
「まだ社交シーズンの途中だが、構わないかい?」
「もちろん。もともと、そろそろウェストサセックスに帰ろうと思い始めていたところだから、問題ないわ」
 ウェストサセックスという言葉に、ウィルが心配そうな表情を浮かべた。

「ケントの領地に戻る途中で、レイノルズ館には寄るつもりだ」
「そうね。わたくしも長いこと館を空けているから、母のことが気がかりで・・・・・・」
 俯いてカップに視線を落としたサラを励ますように、ウィルが頼りになる乳母の名を挙げる。
「ベッシーを先に戻したんだろう?それなら大丈夫、彼女がしっかり取り仕切っているよ」
「そうね」
 不安の色を濃く滲ませながら、どうにか笑顔を浮かべようとするサラに、ウィルは束の間、痛ましそうな光を向けた。それから、きっぱりと言い切った。
「大丈夫だ」
 彼の言葉にみなぎる自信が心強くて、サラは声もなく、ただ何度も頷いた。ウィルがサラを労わり、思い遣ってくれるなら、彼のために何でもできると胸の奥で思いながら。


* * *

 それからウィルは、溜まっている仕事があるとかで、書斎へと戻っていった。サラはひとり自室へ戻ったが、彼に拒絶されたとは感じていなかった。ウィルは最後に一言言ってくれたのだ、「もし何か問題や悩みが起きたら、遠慮なく相談して欲しい」と。

「今一番の悩みは、これから起こることについてだと言ったら、彼は何て言うかしら」
 彼には到底言えない台詞が、サラの唇から零れ落ちる。

 今日会った限りでは、ウィロビー伯爵家の使用人は有能で頼りになりそうだし、家を切り盛りすることについては、すぐに慣れるだろうと、サラは楽観視していた。問題は今夜これから起きることだ――ウィルとサラの間に。正式な夫婦となった以上、避けては通れない。それについて考えるたびに、果てしないため息が、枯れることなく身体の中から湧き上がってくる。
 初夜についての知識を、サラはこれまで大して持ち合わせていなかった。思春期に差しかかった時、既に母親は寝付いていたし、家のことで忙しく、近所の年頃の娘たちと打ち解けた話をできるほど親しくなる時間は割けなかった。女学校にでも入れられていたら、きっと耳年増になっただろうが、生憎と勉強は家庭教師について習っただけだ。レイノルズ館でも馬を飼っていたし、周囲には農場もあったから、動物たちがどうやって子供をもうけるのか、その場面を目撃したことがある。だが、具体的に自分が誰かとどうなるというのは、全く考えられなかった。
 さすがに結婚すれば、何らかの義務が生じるのだろうとは思っていた。そこについては、ベッキーがつい数日前に時間を取り、気の置けない女性同士らしく、かなり赤裸々に説明をしてくれた(祖母が聞いていたら卒倒しただろう)。今でもとても信じられないが、跡継ぎを産んだりするには、どうしてもその過程が必要らしい。「とても素敵で親密なことよ」と、ベッキーは愛情に溢れた笑顔で語っていたが、サラには理解しがたかった。

 今夜は結婚初夜、サラには逃れる術はない。こうしてひとりで部屋にいる時間が耐え難いものに感じられてきたが、かといってウィルがやってきても、どう振る舞うのが礼儀にかなっているのか、確信が持てない。
 それに、妻としてできるだけのことをしたいとサラは強く願っている。肝心なところで彼を失望させないように、どうしたらいいのかわからなくても、気をつけなければと自分に言い聞かせているのだ。彼は挙式後、夫として優しく振る舞ってくれている。理想の妻とはいかなくても、彼の妻に相応しいレディでありたいのだ。

 不安で胃がどうにかなってしまいそうだ。夕食にいただいたものを、みっともなく・・・・・・緊張のあまり戻すなんていうことのないように、どうにか胃にはご機嫌を宥めていただきたい。一日中微笑みを貼りつけていた顔はこわばっている気がするし、足も泥のように重い。
 と、過敏になっているサラの耳が、隣室のドアが閉まる音を聞きつけた。必死に耳を凝らすと、隣室を歩き回る人の気配がする。廊下の音は綺麗に遮断するが、夫婦の寝室を隔てる扉はさほど分厚くないようだ。
 サラの視線は、自然、ふたりの部屋を隔てる扉へと向けられた。ウィルが自室に引き上げてきたということは、いつその扉が開いてもおかしくない。一体いつその時が来るのか、ひたすら気配を探って待ち続けた。

 しかしサラの予想を裏切り、隣室の気配は一度再び廊下へと出て行ったようだ。緊張のあまりウィルが自室にいると勘違いしたのだろうかとサラが訝っていると、今度は思いがけず、居間の扉がノックされた。
 焦って返事をすると、入ってきたのはウィルだった。開け放したままだった居間へ続く扉の向こうに、思いがけない姿をみとめ、サラは声もなく立ち上がった。何と声をかけたらいいのか、混乱する頭の中には気の利いた言葉のひとつも思い浮かばない。ウィルはゆっくりとこちらへ歩いてきて、居間と寝室を隔てる敷居のところで立ち止まった。寝室の明かりは暗く絞っているため、居間の明かりを背中に受けた彼の顔は暗く翳っていて、表情がよく読み取れない。不安におののきながらも、サラはどうにか、数歩、彼へと近づいた。

「どうなさったの?」
 やっと振り絞った声は、掠れていて、その上間抜けな台詞だと自分自身に呆れた。彼が初夜に妻のもとを訪れたのは・・・・・・理由はひとつしかないはずなのに。

 緊張で全身を硬くするサラに、ウィルは穏やかな微笑みを向けた。茶色の双眸には、馬車で見たのと同じ、思い遣りの光が浮かんでいる。
「きちんと伝えておかなくてはと思ってね」
 伝えるとは、何を?
 サラの胸に、更なる不安が渦巻く。

 ウィルの口振りは、兄が妹を教え諭すような、ゆっくりとした、優しいものだった。
「今回の結婚は、我々ふたりにとって思いがけないことだった。君だってまだ、十分にこころの準備ができていないだろう?ゆっくり馴染んでいけばいい。だから無理に、初夜を過ごそうとしなくていいよ。まずは身体を休めなさい」
 サラの視界が、ぐらりと歪んだ気がした。

 夫となったひとが告げる言葉の意味を頭がなかなか理解しようとしない。彼は一体何を言っているのだろう。
 立ち尽くすサラに、ウィルは一層、噛んで言い含めるように、穏やかに言い聞かせた。
「疲れただろう。僕は君を煩わせないから、安心しなさい」
「だけど・・・・・・」
 漸く口にした言葉は反論の口火となるものだったけれど、何と言ったらよいのかわからず、サラは途方に暮れた。
 すると、サラの逡巡をウィルは別の意味に捉えたようだ。

「我々がベッドを共にしなくても、そのことをとやかく言うようなお喋りはこの屋敷にはいない。だから気にしなくていい」
 おやすみと言い残して、彼が立ち去ろうとする。反射的にサラは、彼の袖を掴んでしまった。そのことに後から気づいて、咄嗟に放したものの、おろおろとウィルを見上げた。だけどそれ以上何を言えるというのだろう。
 茶色の双眸はどこまでも優しくて、思い遣りに溢れていたけれど、その奥に、はっきりとサラを拒絶する余所余所しさを見つけてしまった。妹をあやすような彼の態度は、これからサラをどう扱ってくつもりか、彼の今後の方針を明確に表明している。ベッドを共にすることを拒否したのが、その良い証拠だ。

 伯爵夫人として礼儀を尽くすけれど、本当の夫婦になるつもりはない。

 ああ、彼のこころは、固く閉ざされたままなのだ。その鍵を持っていないサラが、中に踏み入ることなどできないのだ。
 残酷な現実が、サラのこころを打ちのめす。

 ウィルの手が、優しくサラの髪を滑る。おやすみともう一度言い残して彼が踵を返したが、それ以上サラは、彼を引き止めることはできなかった。彼のために出来る限りのことをしたいという気持ちは変わらないのに、彼が、サラの関わりを拒否するのでは、一体どうしたらいいのだろう。
 疲れ切ったサラの神経は、身体は、すぐに答えを出すことができなかった。
 崩れ落ちるようにベッドに倒れこむと、サラは、声もなく泣いた。かつて幼い時、両親を襲った悲劇に絶望するサラを慰めてくれた手は、もう側にない。その手の持ち主に拒否されてしまったのだから。

2012/05/05up


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