こころの鍵を探して

 ちぎれた夢[1]

 サラは安心させるようにニコリと笑って、メモを家政婦の手に戻した。
「来週のメニューはこれでいいと、マイナー夫人に伝えてちょうだい。私が手を加えるところは特にないわ」
「かしこまりました、奥様」
 ハビシャム夫人が頷くのを見て、サラは軽い口振りで「そうね、つけ加えるとしたら」と言い添えた。
「昨夜のデザートにいただいたレモンタルト、旦那様はとてもお気に召したみたいだったわ。月曜日のデザートをレモンタルトにしてもいいのではないかしら」
「そうですね」
 ハビシャム夫人は手にしたメモ書き――料理人のマイナー夫人が作成した来週のメニューリストを確認しながら、大きく頷いた。メイン料理の内容とあわせるなら、月曜日が一番良さそうだ。
「そのように申し伝えます」

 ハビシャム夫人が了承の意を伝えると、サラは再び、口元を微かに上げて淡く微笑んだ。こちらまで表情を崩してしまいそうな、ほっと和む空気を、彼女は発している。婚礼からまだ2週間ほどしか経っていないが、有能な家政婦は、若い伯爵夫人に全幅の信頼を寄せるようになっていた。ハビシャム夫人だけではなく、使用人の間で、サラの人気は高い。

 彼女がこの屋敷にやってきてすぐ、使用人に対しても気配りを忘れない女主人だということが判明した。威圧的な態度を取ったりせず、些細なことでも労いの言葉を口にする。使用人たちの手を煩わせることをあまり好まない。
 新しい伯爵夫人については、ハビシャム夫人は無駄な噂話や下世話で無責任な風聞など、事前に一切耳にしていなかった。高級使用人として当然のことである。炊事場にたむろする若い使用人たちが噂をしていようものなら、現行犯で厳重注意をするのが、彼女の役割だ。
 しかし、サラの兄たちとウィルが親しく付き合っていて、何度もウィルの屋敷を訪れたことがあるため、バリー伯爵家についての知識は一通り持っている。主の急な婚約騒動には驚いたが、相手があのバリー伯爵家の末娘と聞いて、ハビシャム夫人は安心したのだ。ハビシャム夫人同様一切の無駄口をきかない執事のパーカーも、きっと安心したはずだ。尊敬する主が名家から花嫁を迎えるのは、伯爵家にとって名誉なことである。

 伯爵夫人を迎え入れるにあたって、パーカーからサラ・ヒューズ令嬢に関する情報を幾つか聞かされた。そしてやってきた花嫁は、ハビシャム夫人が想像していたよりも、気さくで、年齢の割りに落ち着いた物腰の、主にはぴったりの花嫁に思われた。
 サラ自身はあまり気に入っていないようだが、彼女の少し歪んだ口元は、ほんの少しでも上げると途端に顔の印象を変えてしまう。濃い青の瞳は、きらりとした光をいつも湛えていて、快活で明るい印象の、華やかな顔立ちとなるのだ。
 普段は年齢に似合わない落ち着き払った物腰で、てきぱきと物事を判断するし、家にいる時にはドレスもあまり華美なものを好まない。地味な印象を作り上げようとしているサラではあるが、もともと顔の造作も整っている。無表情にしていれば平均的な顔立ちに見えるが、あのサファイアの双眸に宿る生き生きとした光が、彼女の顔立ちに類稀な魅力を与えている。

 あの笑みを向けられたら、大抵の人間は彼女の虜になってしまうだろう。相手を寛がせる笑顔は、屋敷の人間たちをたちまち骨抜きにしてしまった。あれでこころが動かない人間がいたら、きっとそのひとのこころは氷でできているのだ。
 知らず、微笑みを返しながら、ハビシャム夫人は目下最大の懸案事項を口にした。
「奥様、晩餐会のメニューについては、いつご検討されますか」
 むう、と、サラの眉間に軽い皺がよる。ここ数日、サラを最も悩ませている問題だ。

 晩餐会を当家で開催するという報せをサラがウィルから受けたのは、ほんの一週間前のことだった。何の前触れもなかったので、内心、サラはかなり焦ったのだが、ウィルは簡潔に、決定事項だけを告げた。少人数の晩餐会をこの屋敷で催すので、準備を頼みたいと、実にあっさり言ってくれた。
 結婚式にあたって骨折ってくれた家族や、親しい友人だけを招いて、ささやかな晩餐を楽しむということらしい。サラにとっては、新米伯爵夫人としての手腕を試される、重大な出来事だ。ウィルや兄たちをがっかりさせないように、成功させなくてはいけない。秘かに固く決意している。レイノルズ館で家政を取り仕切っていたとはいえ、人を招待したことはない。失敗しないよう、場慣れしている有能な使用人たちの手を借りて、万全の準備を進めているところだ。

「そうね、そろそろ最終的に決める時期ね。今日の午後はどうかしら。マイナー夫人と一緒に、わたくしの居間へ来てちょうだい。お茶の時間になる前に片付けてしまいましょう」
「はい」
 ハビシャム夫人が頷くと、サラがもう一度微笑んだ。
「わたくしにとっては初めての大仕事だわ。頼りにしています」
 窓から差し込む陽光に、サファイアの瞳がきらりと煌いた。


* * *

 いつも通りそつのない物腰で、パーカーが届いたばかりの郵便物を置いていく。髪に銀髪が混じるようになった執事は、先代ウィロビー伯爵――ウィルの父親の代から仕えている忠義者で、ウィルを幼い頃から支えてくれた頼りになる存在だ。
 影のように立ち去ろうとする執事を呼び止めて、ウィルは天気を尋ねるのと同じような口振りで、問いかけた。

「彼女は上手くやっているかな?」
 彼女が誰のことなのか、パーカーは過たず察して、素早く肯定した。
「はい。見事に取り仕切っておられます」
「ハビシャム夫人とも問題ないか?」
「はい。ハビシャム夫人は奥様をすっかり尊敬している様子でございます」
「そうか」

 書斎の机の前に座っていたウィルは、椅子から立ち上がり、何気ない素振りで窓際まで歩いていった。窓越しに、庭の木々が目に入る。綺麗に手入れされた庭の隅に、黒い長身の影が見えた。あれは、サラについてきた従僕だ。長い体を折って、庭師の後につき、手入れを手伝っているようだ。何とはなしに目で追いながら、ウィルは更に言葉を継いだ。
「晩餐会が終わったら、すぐにウォーリンガムハウスへ戻る。3日以内には発てるように準備をしておいて欲しい」
「かしこまりました」
 唐突な指示ではあったが、パーカーは余計な反問などせず、主の意志を了解した。ウォーリンガムハウスというのは、ウィロビー伯爵家がケント州ウォーリンガム近郊に持っているカントリーハウスで、一族の本拠地でもある。一時は廃れてしまったが、ウィルが叔父の監督の下維持し、数年前に改良を行った屋敷である。

「途中でレイノルズ館にも寄るから、そのつもりで。おそらくレイノルズ館で1泊することになるだろう。サラにとっては久々の母君との再会だからね」
「かしこまりました」
「頼んだよ」
 影のような執事は、静かに書斎の扉を閉めて出て行った。ウィロビー伯爵家では、それほど多くの使用人を抱えていない。多くのというのは、バリー伯爵家と比較してのことではあるが。

 そのため、ウィルがウォーリンガムで過ごす時は、パーカーやハビシャム夫人も同行し、あちらの屋敷を取り仕切る。ウィルがロンドンで過ごす時は、彼らも共にロンドンへやって来る。もちろん、双方の屋敷を管理するために監督役を常時置いており、数人ずつは屋敷の維持管理のために残しているが、主だった者は主人と共に行き来している。
 今回もパーカーがしっかり心得て、事前に留守宅を管理している者へ連絡を入れておくだろう。そしてウィルとサラがレイノルズ館で1泊する間に、パーカーとハビシャム夫人はウォーリンガムハウスへ先行し、主人夫妻を迎え入れる準備を万全に整えるはずだ。

 晩餐会終了後3日以内としたのは、あまり長居すると、また次々に招待状が送られてきたり、返礼の晩餐会が催されたり・・・・・・際限がないからだ。必要最低限の晩餐会を催して、今回はさっさと領地に引っこむつもりでいる。急すぎると勘ぐられれば、娘の結婚式にも出席できなかったバリー伯爵夫人を早く見舞いたいからだと理由をつけるつもりだ。それは事実であるが、最大の理由というわけではない。
 これ以上ロンドンに残ると、アーサーやブラッド、ベッキーやソフィアの監視の目が気になってしょうがないからだ。監視の目、というと彼らにとっては心外かもしれない。だが、サラを見守るという心配そうな彼らの視線は、ウィルにとっては正直、負担だった。彼らの大切な妹を預かった以上責任はしっかり果たすつもりだし、無責任なことはしないつもりでいる。

 サラを心配する気持ちはわからなくもないが、結婚した以上は、ウィルを信頼して任せて欲しいと思うのだ。サラに対して過保護すぎないかと感じることもある。それをブラッドにそれとなくほのめかしたら、彼は痛烈な一言を返してきた。
「サラと結婚したのが他の男だったら、君だって私たちのようになったさ」
 過去、妹分として彼女を可愛がってきた経緯を考えると、杞憂だと笑い飛ばすこともできなかった。

 暫くウォーリンガムハウスに引っこんで、状況がもっと落ち着けば、彼らも心配が杞憂だったとわかるだろう。これは結婚前には予想しなかったことだが、サラとの結婚は、ウィルに多くの実りをもたらしている。
 サラと結婚することで、これまでの安穏な生活が乱されるのではと心配していたが、現実は違った。彼女は有能な女主人として、使用人たちとうまく関係を築き、家政をきちんと取り仕切っている。これまでもハビシャム夫人が、屋敷のことに心を砕いてきたが、以前にはなかったもの――寝具にラヴェンダーの仄かな香りが滲み込んでいたり、邸内のあちこちに花瓶に生けられた花が飾られていたり、毎朝髭剃り用にお湯が用意されたり――がウィルの生活にもそこここに顔を出し始めている。そうした変化は、ウィルのペースを乱すようなものではなく、彼が過ごしやすいように配慮されていて、とても心地よい。こまやかな心遣いは、この屋敷に、家庭的な雰囲気をほんのりと与えてくれている。

 結婚後、ウィルはサラを同伴して、厳選した幾つかの夜会に出席した。社交界で大きな発言力を持っている有力者が主催する、出席するメリットの大きなものだ。そこでは新婚夫婦は多くの祝福者に取り囲まれたが、サラは終始控え目で、夫を立ててそつなく振る舞っていた。彼女が微笑んでいると、場の空気も明るく和むようだった。

 そう、サラとの生活はとても心地よかった。彼女がウィルのために心を配り、快適に整えて、そっと寄り添ってくれていることが、ウィルに新鮮な驚きと活力をもたらしてくれている。
 ウィルは相変わらず仕事で時間を取られ、サラとは朝食と夕食を共にするぐらいしか顔を合わせない。それでもテーブルの向こう側に煌くサファイアの双眸は、ウィルに居心地の良さと落ち着きのなさを感じさせる。屋敷の生活に慣れるに従って、サファイアの瞳に彼女本来の快活な光が灯るようになり、ウィルを秘かに安堵させた。彼女の瞳が生き生きしているのを見ると、ウィルの中からも余分な力が抜けていく気がする。
 まるでずっとサラと一緒にいたかのように――彼女の存在は、とてもしっくりくる。相変わらず床は共にしていないが、日常の隅々に、サラの気配が日ごとに強く満ちてきている。このままでは彼女に溺れてしまいそうなほどに。

 ふと、机の隅に置いてある写真立てに目が行った。そこからこちらに笑いかけているのは、菫色の瞳を持つ美しい娘――たちまち、ウィルの表情から感情が抜け落ち、唇が厳しく引き結ばれた。
 アビーのことを考えない日はこれまでほとんどなかった。意識的に考えないようにしなければ、ふとした瞬間に、彼女の音楽のような笑い声が耳に甦り、菫色の瞳が脳裏に浮かび上がったというのに。このところ、サラのことばかり考えているのではないか。

 ウィルは微かに頭を振り、それから再び窓の外へ視線を向けた。そこには、黒髪の青年の姿は既になかった。
 サラを妻にしても、こころまでは彼女に渡すつもりはない。昔アビーに捧げたウィルのこころは、彼女と一緒に土の下に埋もれているのだ。もう二度と、ウィルに触れることができないアビーのため、彼にできるのは、こころを彼女に捧げることぐらいしかないのだ。
 ウォーリンガムハウスに戻ったら、また彼女を訪ねなくては。その時には、サラを妻にしたことを、墓前に報告しなければならないだろう。
 ウィルは深い吐息をつき、そっと目を伏せた。茶色の眼差しに浮かぶのは、哀しく、苦しい光だった。


* * *

 それは本当に、ふとしたきっかけだった。

 山のように舞い込む招待状のうち、辞退すると決めたものへ断りの返事を書くこと。それは、伯爵夫人としてサラに任された仕事だった。もちろん代筆させることもあるが、一部の貴族宛には、サラの直筆で返信が送られる。
 晩餐会の準備の合間を縫って、いつものように返信を書くうちに、伯爵家の紋章入りの便箋が切れてしまった。今日のうちに返事を書くと決めたものの3分の2しか終わっていない。
 執事に頼んで補充してもらうことにして、ひとまず今日の分を書き上げるだけの便箋を入手しなければならない。サラは思案して、ウィルの書斎から分けてもらうことにした。

 自身の居間を出て、階段を下りていくと、ちょうどウィルが外出するところだった。事情を話すと、書斎の机から持ち出して良いと言われたので、見送ってから彼の書斎へと向かった。場所は知っているものの、部屋へ入るのは初めてだった。

 大きな窓の前に置かれた机へ向かい、教えられた通り一番上の引き出しを開けると、目当てのものが入っていた。多めに分けてもらうことにして引き出しを閉じ、何気なく視線を書斎の中へと彷徨わせた。
 ここでウィルが知恵を絞り、領地経営や事業運営の指示を出すのだ。彼の砦とも言うべき場所に出入りを許され、机も勝手に開けて良いと快諾してもらえたのは、信頼の証のようで、嬉しかった。彼の秘密の場所を垣間見たような、そんな浮き立つ気持ちにさせられる。部屋の中には本や紙の匂いに混じって、ウィルの香りも微かに漂っている。

 唇が綻びそうになる。彼の信頼に値するよう、伯爵夫人としてしっかり勤めを果たさなくてはと決意を新たにしつつ、何かに引き寄せられるように、机の上の片隅に、視線が吸い寄せられた。
 小さな写真立ての中で、美しい娘が、こちらに笑いかけている。
 頭から冷水を浴びせられたように、背中がすうっと冷えた。

 白黒で彼女の色彩は判別しがたいが、目鼻立ちの美しさ、気品の漂う様は、十分に伝わってくる。サラには、彼女が誰なのか、一目見ただけでわかっていた。
 彼女が、アビーなのだ。

 この書斎は無闇に立ち入りを禁じられており、掃除に入る使用人も限られている、と聞いていた。そんなウィルの城に、当然のように、存在を許される女性。仕事をしながらでも、目に入る位置にあることを許される女性。そんな女性は、サラの知る限り、1人しかいない。
 ベッキーやソフィアとはまた違う美しさを持つ女性。一見儚げな可憐な様子は、ソフィアに通じるところがあるが、ウィルの隣に並んでもそん色ない女性。

 今までおぼろげにしか感じたことがなかった存在が、俄かに実体を伴って、サラの前に大きく立ち塞がったような、そんな気持ちにさせられる。
 彼の側にいることを許されるのは、昔も今もアビーだけなのだ。

 たまらない気持ちになって、サラは、そそくさと書斎から逃げ出した。現実の世界で、ウィルの妻として世間にも認知されているのはサラなのに、堂々と胸を張って彼の妻だと言えないのはなぜだろう。誰にも会わずに居間まで戻れたのは幸運だった。視界が滲んで仕方ない。
 便箋を机の上に投げ出すように置いてから、ゆっくりと長椅子に崩れ落ちるように座った。惨めだった。どれほど妻らしく勤めを果たしても、彼のこころには決して入れてもらえないのだと、思い知らされた気がした。

「・・・でも、わたくしにはこれしかないの」
 震える声が、唇から零れ落ちる。

 偽りの夫婦であっても、サラは、粛々と役目を果たすしかない。それを投げ出したら、それこそウィルの側にいる意味をなくしてしまう。
「やらなくては」
 自分を叱咤する声に、ちっとも力が入らない。目を瞑り、必死にこころを落ち着かせる。波立つままでは、綺麗な筆跡で返信を書くことなどできないから。

 大丈夫。わたくしは大丈夫だわ。
 何度か言い聞かせ、深呼吸を繰り返してから、サラは、再び机の前へと歩いていった。途中、チェストの上に飾られた花瓶が目に入り、顔を寄せて、そっと香りを吸い込んでみる。甘く優しい花の香りが、サラのこころを癒してくれる。

 あとで、ジェイにお礼を言わなくては。
 彼女の癒しになればと、侍女と一緒に毎日様々な花を寄越してくれるのは、幼い頃からサラを支えてくれる黒髪の青年だ。彼の心遣いが、ささくれだったサラのこころに滲みる。
 大丈夫よ。勤めを果たさなくては。
 微笑んでから、サラは机へと向かった。


* * *

 ある意味結婚式の日以上の緊張感を持って、サラは晩餐会を迎えた。よその御宅の晩餐会に招かれるのと、自らが主催するのとでは全く勝手が異なる。強張った笑顔にならないよう、自然に振る舞うように努力しながらも、サラの内心は、冷や汗が止まらなかった。

 招かれた客はごく少数で、レイモンド侯爵夫妻、バリー伯爵夫妻、フォード伯爵夫妻、ハガード夫妻という、身内とほとんど身内と言っても良い親しい友人と、社交界の重鎮オルソープ公爵夫妻だった。オルソープ公爵は家族ぐるみでレイモンド侯爵家と親しく交流しており、サラのことも実の孫のように可愛がっている。前バリー伯爵夫妻を襲った事故からずっと、サラのことを気にかけ、彼女の社交界デビューは絶対に我が家主催の舞踏会でと心を砕いてくれた、サラにとっては第二のおじいさまのような存在だ。

 親しいひとびととはいえ、失礼があってはならないし、彼らのお眼鏡にかなうようにホストとして振る舞わなくてはならない。何日も準備にかけ、その間、サラはベッキーやソフィアから教わった事柄を反芻し、信頼の置けるハビシャム夫人たちに相談を続けてきた。細心の注意を払った結果、晩餐会は滞りなく進み、食後のティータイムまでこぎつけた。

 ここまでは本当に皆、よくやってくれたわ。あと少し、気を抜かないようにしなくては。

 サラは自分に喝を入れなおし、女性陣を居間へと案内する。男性陣は葉巻とお酒を楽しむ為、ウィルがビリヤード室へと連れて行った。
 アンがピアノを弾いている。レイモンド侯爵夫人とオルソープ公爵夫人は、何やら話に夢中だ。サラはベッキーとソフィアに挟まれるようにしてソファに腰を下ろし、親愛なる義姉たちに、恐る恐る感想を伺ってみた。

「どうだったかしら、今夜は」
 ベッキーとソフィアは顔を見合わせて、それから一斉に破顔した。ベッキーがぎゅっとサラを抱きしめる。
「頑張ったわよ、サラ」
「初めてとは思えない、素晴らしい晩餐会だわ」
 ベッキーに抱きしめられるサラの頬を、反対側からソフィアが両手でそっと挟みこみ、そのままそっと頭を撫でられる。緊張が解け、サラの顔にも漸く本物の笑顔が浮かんできた。
「本当に?身内びいきではなくて?」
「まあ。わたくしたちの賞賛を受け止めてくれないの?」
 ベッキーが大袈裟に肩を竦めてみせる。ふふ、と照れくさそうに笑って、サラはベッキーの肩に頭をそっと寄せた。

「ううん。嬉しくて、びっくりしただけよ。うまくいったのは、ベッキーとソフィアのおかげだわ。どうしたらいいかさっぱりわからなかったもの、本当にありがとう」
「わたくしたちもあなたを誇らしく思うわ」
「本当に」
 ベッキーとソフィアが、交互にサラを抱きしめる。こういう時、兄たちが素晴らしい女性を妻にしてくれて本当に良かったと、サラはつくづく感じる。相談もできないような義姉であれば、サラは今頃、途方に暮れて大失敗をしていたに違いない。

 ひとしきり感想を述べ合うと、ベッキーは笑顔を消して、真剣な表情でサラに尋ねた。
「明々後日にはウォーリンガムへ向かうって、本当なの?アーサーがウィルからそう聞いたと言っていたけれど・・・・・・」
「ええ、本当よ」
 サラの簡潔な答えに、ベッキーとソフィアは顔を見合わせた。おずおずとソフィアが遠慮がちに口を開いた。
「まだ結婚から日も経っていないのに?」
「ウィルは領地が心配だし、わたくしはお母様が心配なの」
 レイノルズ館からの報告は兄たちにも届いているはずで、ベッキーとソフィアも訳知り顔に頷いた。

「それに社交界はあまり好きではないもの。シーズンの途中でも、わたくしは全く気にしないわ」
「ねえ、サラ。立ち入ったことを聞くけれど・・・・・・」
 いつもはっきりと物を言うベッキーが、珍しく言いよどむ。暫し躊躇ってから、彼女はサラの顔を真っ直ぐに見つめて、尋ねた。
「ウィルとは上手くいっているの?」

 その瞬間、内心の動揺が出ないよう、上手く表情を取り繕えただろうか。紅茶をひと口飲んで、サラは微笑みすら浮かべて答えた。
「ええ。彼はいい夫よ」
「あなたは幸せ?」
 重ねて、今度はソフィアが問いかける。もう一度紅茶を飲み、サラはこくりと頷いた。

「ええ」
 幼い頃から憧れていたひとの妻になれたのだ。経緯はどうあれ、ウィルの妻になったのは、サラにとって幸せなことだ。
「わたくし、そんなに不幸せな顔をしているのかしら?」
 冗談交じりに笑うと、ベッキーが堪らずといった風に、もう一度サラをきつく抱きしめた。

「あのねサラ、あなたが頑張り屋さんなのは知っているわ。でもね、もし、頑張っても上手くいかない時は、疲れてしまった時は、遠慮なく我が家に戻ってきなさい。アーサーだって、いつもあなたを想っているのよ。だから、どんなあなたでも、わたくしたちはいつだって受け容れるわ。あなたはわたくしたちの大切な妹ですもの。帰る家があるということを、絶対に忘れないでいて」
「ベッキー・・・・・・」
 抱擁から解放されても、サラはまだ、戸惑ったように義姉を見つめ返すだけだった。すると今度はソフィアがサラを抱きしめる。

「ブラッドとわたくしも、いつもあなたを想っているわ。あなたは可愛い妹よ。ウィルはいい人だけど、もし我慢ならなくなったら、帰ってきていいのよ。バリー伯爵家でもフォード伯爵家でも、どちらもあなたの家よ。いつだってあなたの味方だってことを忘れないで」
「ソフィア・・・・・・」
 ふたりの言葉は、サラのこころに滲みた。視界が滲みそうになる。どうにか堪えながら、サラは、愛すべきふたりの義姉に微笑んだ。
「ありがとう二人とも。皆のこと、愛してるわ」

 ふたりの言葉は、きっと兄たちの意向を踏まえてのものだ。後で兄たちにも感謝のキスを贈ろう。

 素晴らしい家族を持って本当に幸せだ。サラは心底そう感じながら、そこでふと、夫のことを思った。サラには家族がいるけれど、ウィルは1人っ子で兄弟もいない。哀しいこと、嬉しいことがあっても、それを分かち合える遠慮ない存在がいないのだ。それはどんなに寂しいことだろう。彼と家族になることができれば――。どうにか道を探ることはできないだろうか。やってみる価値はあるのではないだろうかと、サラは、秘かに決意した。

 晩餐会も無事終了し、招待客をポーチで見送っている時のことだった。レイモンド侯爵夫妻、オルソープ公爵夫妻を見送り、サラが何やらブラッドに話しかけ、彼がそれに答えている。近くに立っていても、ウィルのところまで会話の内容は聞こえない。サラは照れたように笑い、ブラッドもにこにこと兄の顔で笑っている。そこへ、ソフィアが近づいてきて、低い声で囁くように言った。彼女の美しい灰青の瞳は、あまり見たことのない強い光を放っていた。
「ウィル、あなたに言っておかなくてはならないことがあるの」

2012/07/14up


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